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「寅さんと映画と私」 映画監督 山田洋次氏(1)〜(4)



住友・松下・トヨタ3社合同講演会
「寅さんと映画と私」 映画監督 山田洋次氏
1993年12月16日 名古屋支社

*トヨタマネジメント研究会 近藤委員長(第1購買部)挨拶

 トヨタマネジメント研究会は昭和30年に発足以来、従業員の相互啓発とコミュニケーションを図るインフォーマルグループとして4つの部会に分かれて研究活動を続けて参りました。その成果はトヨタマネジメント誌の発行という形で発表しております。
 この会では他に今回のような講演会も毎年行っています。名古屋支社のご近所の住友さん、松下さんと合同というやり方では今年が3回目ということになります。毎回、各界の著名な方をお招きしていますが、本日は山田洋次監督にご講演をお願いしました。山田監督は寅さん以外にも多くの名作を撮っておられますが、最近上映された「学校」が日本アカデミー賞の候補としてノミネートされていて、明日17日が最終発表だそうです。そういうお忙しいときにも拘らず名古屋まで来て頂きました。明日の晩、テレビを見るとどうなったかが分かります。是非受賞されますよう皆さんと一緒にお祈りしたいと思います。<翌日受賞決定>
 さて、私どもは自動車を造ってきましたが、自動車というハードの奥にあるハートがこれからは非常に大事になると思います。本日は我々がハート;心を大事にして生きていく生き方について参考になるお話を、山田監督から聞かせて頂けるのではないかと思います。



山藤章二 似顔絵塾の特待生 内藤忍さんの描いた渥美清

内藤さん;イラストレーターとしては師匠の「やまふじ」に似せて
「うちふじ」と自称している。


*山田監督講演要旨

 今晩は!皆さん昼間のお仕事でお疲れでしょうに、このように大勢集まって頂き
恐縮であり、また光栄に思います。

 私は映画の監督ですから、作った作品、映画を観て頂くのが全てでして、こういう場で話すのも相応しくないのですが、ときどき話すように頼まれることがあるのですね。それが何かそぐわないこと、僕の仕事とは違うことをやっているという具合の悪さを感じるのですが、今日はとくに一流の企業に携わっている方ばかりの場所でもあり緊張しています。

 寅さんは基本的には一流会社とは関係ない人間でして、例えば寅さんの故郷の柴又の実家のダンゴ屋の裏には印刷工場があります。そこにはタコと寅さんがアダ名をつけた社長がいます。この映画が始まった頃は従業員も若くて、金の卵と言われていた時代でした。集団就職の若者が大勢働いていたのですが、10年、15年経ち技術革新の中で印刷工場の様子も変わっていきました。僕らはそれに追いつくように映画の中でも努力していたのですが、あるとき印刷業界の社長さん達の集まりに呼ばれました。そこで何を言われたかというと、「タコ社長はもう時代に合わない。あの手の社長ではこれからの印刷業のトップは勤まらない。代わりに宏さんを社長にして下さい。宏さんは印刷という仕事にプライドを持っている。技術革新に対応していく勉強もしている。しかも人望がある。こういう人こそ、これからの印刷業の社長に相応しい」ということでした。「それではタコ社長が可哀相でしょう。どうしたらいいですか」と尋ねると、「会長か何かに祭り上げ、実務から離れてもらった方がよい」ということで、彼等は真剣でした。

 しかし、宏さんを社長にすると大問題です。長年、寅さんから「おい、職工!」などと呼ばれていた人ですから、寅さんが面食らうに違いない。そういうことで、未だに昇格できない位ですからね。

 先ほど「学校」という映画を紹介して頂きました。この映画の中で若い人がよい演技をしてくれています。何故、それができたかというと、どうも「学校」という映画は普通と作り方が違っていたからではないかと思います。教室、7人くらいのこじんまりした夜間中学の教室がメインの舞台となる物語ですから、しょっちゅう7人の生徒が田中邦衛のような大人の俳優と西田敏幸の先生と皆一緒に3ヵ月間、毎日毎日顔を合わせていました。皆で夜間中学へ出掛けて実際に授業を受けてみたり、夜間中学の先生や生徒と話したり、夜間中学の実態やそういうところで勉強す
る人の気持ちを感じ取るようなことをしていました。

 いつも皆が一緒にいるということは、撮影のとき一人の俳優、例えば萩原雅人君にスポットライトが当たるのですが、背後に何人も写るのです。ピンボケですが。ですから、何かの形でちょっとは写っている。「君、肩だけしか写らないけど入ってくれ」とか、「今、君の手先がちょっと画面の中で動くからいてくれ」というように、各画面に皆が参加している。そういう中で一人の俳優の演技を皆が見ている訳です。そして俳優が私とのやり取りの中で自分の役割を獲得したり、感情表現のノウハウを掴んだりするのを見ている。そして皆が自分の場合なら、こうか、ああかと考えている。

 こういうことで、私は一人ひとりに細かな手取り足取りの指導などをしていないし、できるものでもないけれど、7〜8人という小さな集団ではありますけれど、その集団が一緒に仕事をする中で皆がそれぞれ学び得た自分の演技というものを身に付けていく。その成果が彼等のとっても生き生きしたキャラクター表現になったのではないかと後になって思うのです。

 僕は常々映画監督の仕事は学校の授業に似ていると思っていました。俳優が何人かいて、その周りにスタッフがいるのですね。カメラ、照明、美術、録音、メイクや製作主任、進行とか演習とか、40人、ときとして50人のチームがいつも一緒になって動いている訳です。

 監督という仕事は何をするのかということは分かっているようで分からないところがある。皆さんもそうだろうし、僕自信も未だによく分からない。だけど、どうも手取り足取り、ああしろ、こうしろと言うのではなくて、皆の仕事をじっと見つめる仕事、立場でないかと最近思うようになりました。

 僕は学生時代に映画監督になれたらいいなと思い、映画の本をいろいろ読んでいました。映画演出読本という本は映画の世界では非常に少ないのですが、ソビエト今のロシアですが、映画の父と言われたプルスキンという人が書いた映画演出論という本に多岐にわたっていろいろのことが書いてある。その中で「監督にとって必要な条件は何か」という項で、その一番目に「組織力である」と書いてあった。それを学生のときに読んで非常に不思議な感じがしました。

 監督は芸術家であり、芸術家から想像することは絵かきとか、小説家のように特異な才能がある人が映画でも芸術的な作品を創るだろうし、監督という仕事ができるのだろう。そして魅力的な映画ができるのだろうと漠然と考えていたのですが、組織力が第1であると読んだときに非常に不思議な気持ちがしたものでした。結局よく分からないままに、その本を読みました。

 僕は撮影所に入って、カチンコを叩くところから始まるのですが、最初に就いた監督さんは川島雄三さんという非常にユニークな人でした。もう亡くなりましたがこの方は筋萎縮症を持っておられ、足が悪い。僕は椅子を持つ役で、監督が椅子に座るとカチンコを叩くことをやっていました。そんなことから修行が始まるのですが、助監督の仕事なんてものは、取り留めもないようなことばかりやるのですね。職務分掌などというものは撮影所にはなくて、先輩の助監督に「どこの部署にも属さないものは全て助監督の仕事だと思え!」と言われました。

 例えば、女優が金きり声を上げて「私の草履はどこ〜?!」と騒げば急いで捜すのが助監督の仕事、セットが汚れていて俳優の足袋が汚れるなと思えば雑巾を持ってきて拭くのが助監督の仕事、昼の弁当を買ってくるのはロケーションマネジャーの仕事だけれど、それを配るのは助監督の仕事・・・・というように、どこにも属さない仕事は皆助監督の掛かりといってコキ使われているのです。

 そんな中で監督は何をしているかと観察してみると、どうもよく分からない。というのは、監督によってまちまち、皆違う訳です。とても無精で何もしないで、カメラのそばでタバコを吸って野球の新聞を読んでいるだけの監督もいれば、汗びっしょりかきながら、忙しくセット中を駆けずり回って、ああでもない、こうでもないと言い、俳優の演技についても細かく文句を言って、最後には自分でやって見せて「この通りにやれ!」というような監督もいる。

 当然、何もしない監督より、一生懸命やっていた監督の方が良い映画を作るだろうと思うのですが、出来上がった映画を見るとそうとも言い切れない。冗談ばかり言って和気あいあいと仕事が進んでいるようなチームがあって、そういう監督の映画が案外楽しかったりする。そこで一つ不思議な感じがするのですね。

 「僕はあんないい加減なことはしない。僕が監督になったら一生懸命働かなければならない」と思うのですが、そうしたら良い映画、感動的な映画ができるとは限らない。そういうことが段々分かっていく訳ですね。

 いろいろなことがあって、僕は監督にはなれると思ってなかったし、あまり監督って良い仕事でないし、どちらかといえば自分は脚本家に向いているのではないかと脚本の勉強をしていました。そんな中で「お前も一本撮ってみろ」と言われました。まだまだ日本の映画が盛んな頃で、新人監督の一本、二本が当たらなくたってどういうことでもない。当たる筈がない。最初はテストのようなものだ。当然予算も少ないし、高名なスターは使えない。けれどもあくまでもテストの積もりで撮らされるという幸せな時代に僕はスタートを切ることができました。

 助監督をしているときと、自分が監督になることは、つまり「助」が付くと付かないかでは 全く違うということが準備のときから分かっていました。今までは、[監督、どうしましょう。これでいいですか」、「駄目、こうせよ」で済んでいたことを全部自分で決めなければならない立場になるとは、こんなにも大変なことかと気づき始めるのですね。準備が進み、・・準備というのはセットを作ったり、キャスティングを決めたり、俳優の衣装を決めたり、ロケーションの場所を決めたり、といろんなことがあるのです。そしていよいよ明日からクランクインというときになると緊張状態が極度に達して、一種のノイローゼになってしまう。その前から、2日も3日も眠れないという感じになる。

 僕の就いていた監督のところへ行って、青い顔をして行ったのでしょうね。「ホトホト自信がなくなりました。一体、明日現場へ行って第一声、どこかにカメラを置いて俳優に演技を付け、カット1から始めなければいけないけど、現場へ行ったら恐らく棒立ちで何も出来ないのだろうとかという不安で一杯です。一体、自分は今まで何を勉強してきたのだろうという後悔の中におります。どうしたら良いでしょう」と相談を持ちかけました。 (続く)

(以後、まだ2/3ほどありますが、特に要求のあった方に限り送信します)

 野村由太郎という人でしたが、ニヤニヤ笑いながら「どってことないよ。映画を大体君が作ると思うから、そうなんじゃないか。映画を作るのは君のスタッフじゃないか。君はカメラのそばに座っている役だろう。例えば、最初のポジション。カメラマンに相談してみろよ。ベテランのカメラマンは自分の経験から割り出して、『ここはどうでしょう』と言ってくれるさ。照明技師はちゃんと照明を当ててくれるし、録音の技師はマイクのポジションを決めてくれるだろうし、俳優だってちゃんと台本を読んでセリフは頭に入っているのだから、何かやってくれと言えば、それなりに自分の体験の中からやってくれる。全部、要するにスタッフ、俳優、君の仲間たちが作ってくれるのだから、君は黙っていれば映画なんて出来ちゃうよ。自分で何から何までやるなんて思うのが大間違いなんだ。君は何もやらなくていいと思え」と言ってくれたので、少し安心し、何とかなるという気持ちで現場へ行った。

 実際、映画の監督なんて、そんなものなんですね。監督はカメラのそばに座って、皆のことを観察する役なんです。

 少しゆとりが出てくると「それ違うな」と感じるところが出てくる。「そこでそんな大きな声出すの変だな」とか、「何か分からないけど、そうじゃないんだ」ということ。それはカメラポジションについても言えるし、レンズの選択についても言える。「どうもこのレンズじゃない」、「あの役者の着ている衣装は何か変だ。他に何かないか。違う色のブラウスか、セーターでも着せたらどうか。他の案がないだろうか」と、納得のいかないことが段々見えてくる訳です。

 「僕はその衣装は違うと思う。別の考え方はないか」と言えば、衣装係のベテランがいて、「それなら、こういうシャツはどうでしょう」、「こういうジャンパーを着たらいいと思う」という代案を持ってきてくれる。俳優も「こういうやり方でいいですか」とか、「こんなやり方もありますよ」と見せてくれます。そういう幾つもの例をみる中で、「それだ、それだ。それがいい」と分かってくる訳ですね。

 そういうことの繰り返しの中で一つの映画ができてくる。最初のときは、どんな映画になったか分からないし、映画館で封切られても、そんなに評判にならないままに終わってしまいましたが、ずっと後になって、20年以上経ってから恐る恐る自分の処女作の映画を見てみました。そのとき自分で驚いたのは、まさしくそれは僕の映画なんですね。「どこが?」と言われても説明できないのですが最初のカットから終わりのカットまでが僕の感じになっている訳ですね。僕以外の何ものでもないという感じです。

 その辺が、映画という芸術が集団で作られる芸術である。いろんなジャンルの芸術がある中で、映画の特徴は大勢の専門家が集まって作り上げていく芸術で、監督は、その総指揮者です。

 途中、しょっちゅう「これでいいか。これでいいか」と持ってこられるものに、「それじゃ駄目だ。もっとないか」という形で返事をしている間に彼の映画が出来てしまう。それが映画の面白さ、映画の不思議さ、映画の新しさでないかと段々思うようになってきました。

 「絶対こうでなければならない」という発想を浮かべることもある。その方が格好いいということがある。黒沢さんのような人は特殊な人だと思います。画家としての力を持っている。だから絵コンテを描いて、色をつけて、力強いタッチで人物を描いたり、山を描いたり、建物を描いたりして「これがこのシーンのイメージである。こういうカットを撮りたい」というようなことを見ると、僕なんか自分の気持ちが萎えてしまう。僕にそんなもの描けたって、とても描けない。本当は、そんなイメージを持ちたいのだけど、とてもそんな具体的なイメージを持つ力がない訳です。しかし、僕にできることは、そういうスタッフを持つことです。造形的な表現力を持っているスタッフが美術部にいれば、「あっ、それだ!」と言える。それを言えること、「それじゃない!」と言えることが才能というものであると思います。「それでいい」とか、「それじゃない」と言いながら、映画を作って行って、その監督のものになってしまうということなんですね。出来上がるまでは、どんな映画になるか、さっぱり分からない。出来上がって映画館で見て、初めて「ああ、こんな映画ができた」と思うのは、焼き物と同じでないかと思います。土を捏ねて色を付けて、竈(カマド)に入れて何日も掛けて焼いて、ある日取り出す。その時どんな形に変形しているかとか、どんな色になっているかと、出来上がったものを見て、作り手が驚いたり、感動したり、ときとしてがっかりしたりする。僕らが映画を作るのも、それに似ていると思います。

 一つの映画ができて、映画館に足を運んで見るときは、試験の発表を見に行くような気持ちがする。この間、46作目の寅さんに老優島田省吾が出演しています。89歳くらいですよね。この人から封切りの後、達筆の手紙を頂きました。「いろいろお世話になりました。実は、先日重い足を運んで映画を観てきました。客席に立って自分の出演した場面を見るということは、犯罪者が法廷で被告席に立っている心境とほとんど同じであります」と書いてありました。島田省吾にして、この言葉ありかと僕は大変感心したりしたんですけれど、まあ本当にそんなものなんですね。そんな被告席に立っているような、判決を聞くような気分で自分の作った映画を見る訳です。

 ということは、どんな映画になったのか、どうも見当がつかない。勿論、大勢のスタッフと一緒に見る訳ですからね。それなりに、もしかしたらうまく行ってるかなとか、失敗かなといった判断は、それぞれにあるのですが、やっぱり一緒に作っているメンバーには分からないものです。映画館で入場料を実際に払って、「さあ寅さんを楽しもうじゃないか」という観客と一緒になったときに初めて自分も少し観客の気持ちに近づけるというのかな。そのときに、楽しいものになったかどうかが分かるという恐い瞬間である訳です。

 寅さん第1作を作ったのが今から26年も前になります。そのときも全くそうでした。いろんな経緯があったんですが、ようやく第1作を作り上げた。この映画は松竹で作ったのですが、松竹は大変反対したんですね。「こんな映画、作ったって当たらない」と言うんですよ。それは前にテレビドラマでやったものですから、もう一回やったって客は来る筈がない」とか、あるいは「ダンゴ屋の不良息子が美人に恋をして振られてションボリしたなんて話は、ひどく当たり前でないか。もっと変わった、面白い話でなければ駄目だ」と言って猛烈に反対された企画を僕が無理やりに押し通してしまった。当時の社長鬼頭四郎さんの鶴の一声で、「まあ、しょうがない。お前そこまで言うならやらせてやれや〜」なんて重役さん達に言って、やっと実現できた。

 そんな訳で、撮影中も会社中から冷たい目で見られているという気持ちもある訳ですね。要するに「だれも賛成しないものを、あいつは独りでやっている」ということで、だから出来上がった映画も試写室の小さなところで見る訳ですが、「何か真面目な映画が出来ちゃったな。ワーッと笑えるところが一つもないという感じがしたものです。喜劇を作らなければいけない。渥美清というコメディアンを主人公にして笑える映画を作ろうと僕も思っていたのですが、こんな大真面目な映画になってしまい大失敗だなと思いました。本当にがっかりしていたんです。

 会社の人達も何もいいと思わない。妙なもので、皆つまんないと思っているんですね。だから封切りも随分遅れてしまった。2ヵ月位して、「せっかく作ったんだから封切ろう」という感じで封切ったところ、これがヒットした訳なんです。

 その日、僕は家の中で、恐ろしくてじっと寝転がっていましたが、プロデューサーに電話で呼び出されました。「おいっ!お客が入っているぞ。しかも笑っているんだ!」ということで、新宿の映画館へ行きました。とても信じられない気持ちでしたが、映画館に入ってみると本当に客席が一杯で、皆がワーワー笑うんですね。非常に驚きました。「あの映画がどうしてそんなに可笑しいんだろうな」という感じでしたが、観客席の後ろに座って見ていると、段々観客の気持ちになってきて「ああ、本当可笑しいな」とつい自分で笑ったりしているのですね。

 そのときに、それで分かったことは、「可笑しい映画を作るとか、悲しい映画を作るとか、感動的な映画を作るってのは、作り手が決めることではない。観客が決めることだ。僕は一生懸命作るしかないんだ。つまり、寅について語り、さくらの悲しみについて語り、マドンナの寂しい心境について大真面目に取り組んでいけばいいんだ」ということです。それが観客にとって可笑しく映ったとしたら、それは僕の感性の中に人間を少し可笑しく捉えるという感性があったということだろう。それは僕の持ち前のことであり、僕が決めることではない。つまり、可笑しい表情をさせたり、可笑しいギャグを言わせたりして観客が笑うというものではないということをツクヅク、そのとき思いました。

 「こういう風に映画を作っていけばいいんだよ」と観客が教えてくれた。「この調子でまた行け」と言ってくれたような気がしてならないのです。

 それから何年か経って、「幸せの黄色いハンカチ」という映画を寅さんの合間に作ったのですが、そのとき武田鉄矢君が初めて映画に出演する。海援隊というグループが段々と落ち目になって、お客が来なくなって彼もションボリしている頃だったが、その彼を起用して作ったのです。彼が撮影の合間に話してくれたことは「僕は年平均2回恋愛をしました。2回共、必ず振られる。振られる頃に丁度寅さんが封切られる。僕は寅さんを見に行って、寅さんと一緒に泣くんです。ところが、あるとき、僕にとって一番悲しい場面で隣のアベックがゲラゲラ笑うんです。悔しくてしょうがないから、立ち上がって『こらっ!笑うな!』と叫んだことがありますよ」ということでした。その話を僕たちは大笑いして聞いていたんですが、そのとき思ったし、彼にも話したんです。「君が失恋したから、君にとっては悲しかったに違いない。しかし、今すてきな彼女と一緒に映画を見ている幸せな男にとっては可笑しく映る。つまり、同じ状況がその人間の気持ちのあり方によって、悲しかったり、可笑しかったりするということでないか。例えば、同じ景色、同じ夕焼け、同じショパンのピアノを聞いても、悲しく聞こえるか、とても喜ばしく見えるか、それはその人の置かれた状況で違うのに似てないか」と話したことがある訳です。

 鉄矢君がいつか素敵な恋人を見つけ、彼女と手に手を取って寅さんの失恋場面を見たらゲラゲラ笑ってしまうのでないか。咄家にも同じ話を聞いたことがあります。「同じ噺を何回もしているうちに段々飽きてくる。それで面白くしようとして、クスグリを入れると話の品がなくなってくる。常に、『この噺は客にとっては初めて聞くんだから』という気持ちで自分を律しておけば、観客だって初めて聞いたような気持ちになって耳に馴染んだ噺でまた笑ったりする。だから、咄家は一生懸命でなければいけません。笑わせようなどと考えてはいけません」と柳屋小さん師匠に言われたことがあって、それを僕たちの映画作りと同じだと思ったものです。

 そんなことをいろいろ考えながら寅さんの第1作が割とうまくいった。映画の世界では「柳の下にドジョウは3匹いる」と言われているんですね。1作がヒットすると、パート2、パート3までは何とか行けるもんだということです。最近のアメリカ映画は、それが多いですけどね。1作がヒットすると、その評判に乗って何とか2作目を無理やり筋を作り、せっかく結ばれた男女を別れさせたり、またくっつけたりして続編を作る。もう一回、続々を作るとなるともっと作り方に苦労をするし、映画としてつまらなくなる。だから、4作以下は駄目である。

 昔の「君の名は」「愛染かつら」が3作まで作られているように、4作というのはほとんど作られていない。

 寅さんの場合は毎回失恋する訳ですから一度も結ばれないので何回でもできる。だから毎回いろんなマドンナが登場しては失恋するという利点を持っている。2作3作では興行成績が落ちないということで4作、5作、6作と作っているうちに、一体どこまで続くのかという不安を感じるようになったことがあります。

 丁度「幸せの黄色いハンカチ]を造って翌年くらいでしたか、寅さんの10作を越えるようなことになって、・・シリーズとして10作を越えるような映画はなかった。東宝には「社長シリーズ」というのがあって、その駅前シリーズが随分続いていたけれど、それは監督も役者も物語も変わるという形でやってきたものでした。寅さんのように同じ主人公で同じ物語がずっと続くということで、そんなにたくさん作れるものでないと思った。だから、「どこかいいところで止めた方がいいのじゃないか」と渥美清さんに話したんですね。「落ち目になってから止めるのは嫌だから、今なら止めても大丈夫だ。渥美さん、どう思う?」と聞いてみました。

 そうしたら彼がニコニコ笑いながら、「私はね、近ごろ街を歩いていても皆に寅さん、寅さんと呼ばれますよ。誰も渥美さんとか、渥美清さんとは呼んでくれなくなってしまった。この前、東京駅のホームで酔っぱらったサラリーマンに捕まって『オーイ!寅さん。頑張れ!』とまでは良かったんですが、彼が急に真面目な顔になって、「ところで、渥美清は元気か?!」と聞かれた。仕方ないので『ええ、元気です』と答えたら『よろしく言っといてくれ!』と別れて行きました。俺はね不思議な気持ちがするんですよ。初めて『寅さん』と呼ばれたときは、正直言って抵抗があった」というんですね。「あの映画の中の人物と俺と一緒にしないでくれ。

この現実の俺の方が、つまり渥美清の方が寅よりは多少利口だというか、新聞位は読むし、年中美女を見る度に恋をするということもない。もう少し常識、礼儀をわきまえた人間なんだ。あれはあくまでも映画の上で演じている役なんだ・・と言い訳したいというか、同一視されることが恥ずかしいとか、みっともないという気持ちが最初はあったんですが、最近は違うんですよ。どう違うかというと。ある種の不安を感じます。どういう不安かというと、大丈夫かなあ、俺はマゴマゴしていると車寅次郎に追い越されて行くのではないかという不安なんですよ」。

 それは僕にとって新鮮な、思いも寄らない言葉でした。寅という人間の愚かしさとか、常識の無さとか、それは笑うに足ることだろうけれど、しかし、寅の全てを笑い切れるだろうか。寅のもっている様々な美質、とくに彼における無欲とか、彼に於ける献身性とか、そのようなものを自分が持ち得ているだろうか。そんなものを持ち得ていない自分が空々しく寅さんを演じて観客の納得できる、存在感のある演技であり得るだろうかと彼は考え始めたのだと思います。


(余り長くなりますので、また「続く」とさせていただきます。メールからの発信で 当方の手間が極めて楽になりましたので、今回も全員に送らせていただきます。迷惑と感じる方はストップをかけて下さい。全文は小生の見込み違いで、まだ2回分ほどあります。昨夜も1時半までキーを叩き校正する暇がありません。誤字などのミスが多いと思いますが宜しくご判読ください。特に人名は著名人であっても表記が間違うケースがあります。お気づきの点をご指摘頂けるとありがたく思います)

 寅さんがマドンナに恋しては失恋するという繰り返しを観客が見てくれるということの意味について、僕は随分考えてみたし、また観客と僕たち作り手の役割というか、観客という一つの社会の中での僕たちが与えられた任務とでも言いますか、それは見たいものがある、映画を見て楽しみたい、笑いたい、笑いながらシミジミ涙をこぼしたい。それについては、こんな物語を見たい、こんな人間に巡り逢いたいとでもいうか、そんな漠然としたイメージを観客が持っていて、僕たちはそれに具体的な形をフィルムの上に創造して、「皆さんが見たかったものは、きっとこん
なことだったろう」と提示する。それがうまく観客の気持ちと重なったときに拍手を受ける。励まして貰える。それが次の仕事へのエネルギーになって行く。・・・・というような関係を考えるようになった訳です。それで、「もうちょっと頑張ろう。はっきり飽きられる迄、この映画は作っていい筈だ」と考え直したりしまして、10作目から20作目、30作目と行って、・・でも40作まで続くとは思っておりませんでした。現在46作目まで作ってしまった訳ですが。

 次第に高齢化の波が寅さんの家族にも及んでおりますからね。寅さんもかなり歳を取った。しかし寅さんの同じ年齢の人と比べれば極めて若い。また、若さを保つ努力を懸命にしています。第1作のとき、さくらさんは独身のOLだった。当時はOLと言ったのですね。寅さんに言わせれば、丸の内の一流企業に勤めている大学出の嫁にやるんだということだったけれど、裏の印刷工場で働いている宏さんに求愛されて一緒になってしまう。そのとき「おばちゃん、おばちゃん」と呼んでいたおばちゃんが50ちょっとでしたが今では、さくらさんが50を越えている。さくらさん自身が「おばちゃん」という歳になっている。ただ、吉岡君の扮するさくらさんの息子がなかなか良い役者になって、寅さんのようにしょっちゅう失恋しては皆に難問題を投げかけるという形で46作まで来ている訳です。

25年目を今越えようとしている訳ですが、映画の歴史が来年で100年になるという。来年は映画100年ということで日本でもいろんな催しがやられると聞いているのですが、丁度今から100年前にパリでルビエール兄弟という人が初めて動く写真をどこかの劇場で上映して、お客さんがびっくりしたという。それ以来の100年の中で25年というのは、何と1/4 ですから、「映画の歴史の1/4 もの間、寅さんをやっていたというのはなかなかえらいことだな」と我ながら呆れたりするのですが、そのように映画の歴史というのは若いとも言える。100年と言うと随分昔のことのようでもあるけれど、例えば、ギリシャ時代から演劇の歴史というものはありますしね。絵画や彫刻の歴史はもっともっと古い訳ですから、何千年という歴史を持っている訳ですから。音楽にしても、もっともっと古い訳ですから。それに比べれば映画というジャンルは極めて若々しい、出来たばかりの芸術だと言ってもいい位かも知れない。

 100年前に生まれて10数年後には、もうちゃんと物語を語る力を獲得していただろう。人間の感情を表現できるようになったろう。30年後、1930年代には、もう音を獲得している。そして1941年には「風と共に去りぬ」が誕生している。つまり、カラー映画ですね。

 最初は走る馬や蒸気機関車を映して皆が驚嘆していたものが、50年後には色のついた、音の入った、音楽の入った、そして豊かな人間の感情なり、人間の歴史をフィルムに映し取るだけの表現能力を獲得するように、凄まじい速さで発達してきた訳です。

 日本の映画の歴史は1930年代には外国とほとんど変わらないレベルに達していました。これは勿論外国から来たメディアではあるけれども、日本人はたちまち日本人独特の映画の作り方を器用にも編み出して、1930年代には既に溝口健二や小津安二郎の大変な傑作が誕生している訳です。ただ1940年代に入ってからは戦争ということで、この歴史がプツッと7,8年途絶えている。しかし戦後再び焼け跡の時代、最初に日本人にとって大きな娯楽として登場した映画はたちまち燎原の火のように日本中に広がって、1950年代に第2の黄金時代をつくり上げて行く訳です。この時代に作られた数々の映画は、世界中の映画界を驚嘆させたし、今でも映画の歴史に残るだけの作品がいくつもある訳ですが、丁度今の中国の映画に似ています。今や、数年前からですけど台湾と中国の映画が、香港を含めてですが、世界中の映画祭を席捲している。同じようなことが、今から30〜40年前に日本の映画であったということを過去形で言うのが大変悔しいのですけれど・・・・。

 アメリカ映画は「風と共に去りぬ」もそうですけれど、それ以後いろんな形で紆余曲折を経てはいるけれども、今日依然として世界の映画市場を席捲している訳です。中国や台湾の映画も勿論、世界に大変大きな影響力を持っているけれど、やはり映画のマーケットということでいえば、圧倒的にアメリカ映画である訳ですね。ヨーロッパでは、かなり前からそのことが問題視されて来ました。僕たちが学生時代にイタリヤのネオリアリズム時代の映画、ビットルレシーカとか、ビスコッティとか、こういう人たちの映画を見て非常に感動した。あるいはフランス映画も素晴らしい歴史を持っているし、ドイツの映画もそういう時代を持っている。イギリスの映画で大変感動したこともあるけれど、どんどんどんどんヨーロッパの映画が衰退して行くのは、アメリカ映画に市場を奪われていくからですね。

 長い間、日本の映画は、つまり日本の文化ってぇのは日本人独自のものであって、そう簡単にアメリカ映画には席捲されないという状態があった訳です。僕が学生のときはヨーロッパの映画か、アメリカの映画しか見なかったけれども、幅広い日本の映画の観客にとっては、日本の映画は本当に大事な娯楽の要素を持っていた訳です。

 洋画というと、ヨーロッパとアメリカの映画ですが、圧倒的にアメリカ映画ですね。この洋画と日本の映画が大体半々という状態が興行成績の上から、観客動員の上から、日本ではずっと長い間続いてきた訳だけれど、ヨーロッパではどんどんどんどん自国産の映画が落ちてきた。ドイツやイタリアでは自国産の映画が10%とか、10%を切ったとかで、あとは全部アメリカ映画というような状態です。勿論それ以外のスペインとか、北欧3国、4国などではもっともっと自国産の映画が少ないのが実情です。

 そんな中で自国産の映画を守ろうという運動が当然起きてくる。ですから、ご存じと思いますけれど、去年のウルグァイラウンド、日本ではお米の問題で大変苦しい思いをさせられているけれど、フランス語圏の国々では映像産業、情報サービスを非常に重視しており、テレビ番組では自国産の番組が最低50%から60%なければならないという法律まで作っているほどです。それ以上アメリカのものは入れない。このようにフランスの映画産業は大変大きな政府の国家的保護が与えられている。それはフランスだけでなく、イギリスやドイツ、あらゆる国がそうですが、日本に比べればもう桁外れの保護が映画産業に対してなされている。それに対してアメリカはウルグァイラウンドの中で映画産業の不当な保護であるとして、制限の枠を撤廃させようと迫っている。フランスは国を挙げて反対して、この問題はお流れになったという事実がある。

 日本では、戦後アメリカ映画が凄い勢いで入ってきた当時に、既にそういう枠は撤廃されているので、アメリカ映画は自由自在にお金を儲けている訳です。それでも、なおかつ長い間、日本の映画は国内の映画市場の半分を持っていた訳ですが、それが近頃だんだん守り切れなくなっておりまして、現在ことしの正月でいうと、日本映画は全体の35%になってしまったそうです。65%が洋画ですが、おそらく60数%まではアメリカ映画が占めています。フランス映画、中国映画の占めるパーセンテージは非常に低いと思います。

 ですから、圧倒的にアメリカ映画、しかもその中でも非常に有名な、巨大なお金を掛けた大作の何本かに絞られるということですね。日本の映画は35%になってしまったけれど、その半分近くはアニメーションです。ドラエモンであるとか、宮崎駿さんの傑作な素晴らしいアニメーションが沢山ある訳です。ドラゴンボールとか、丁度今やっていますね。それで劇場映画の占めるシェアーはいまや20%を切ろうとしていることになる。「酷い、ひどい」と他人事のように思っていたヨーロッパ諸国並みに日本もなっているということですね。このことは大変大きな日本映画の危機であると思っています。勿論、先に申しましたように非常に若い芸術であるので、そういういろんな波風も立つであろうと、低い谷を渡ることもあるだろうと今はそういう時期だろうと僕は思うしかない。

 ここで、「日本映画の危機」という言葉だけど、「危機というのは何も崩壊していくことだけを意味するのではない」と僕は思うんですよね。危機というのは、新しく変わろうとしている時期であって、今までの体系であるとか、今までのノウハウが一度崩れていく。しかし、又そこから新しい発展の要因が出てくるときであると考えるべきではないか。そういう意味では、危機であるからこそ、もっと未来を確信しなければならないと思います。同時に、僕たちは今まで日本人が築いてきた素晴らしい映画作りのノウハウを受け継いで映画を作っているのだけれど、そのノウハウを早く次の世代に伝えなければいけない。それが僕たちの大きな任務であると思っています。

 思えば、僕たちが撮影所に入った時期、1950年代から60年代にかけては、日本の映画が盛んな時期であって、小津安二郎監督が健在でいた訳です。僕自身は小津さんとは面識がないけれど、「あれが小津安二郎だな」とよく撮影所で見掛けたものなんです。その時代、日本の映画が盛んだった時代、小津さんは松竹の撮影所でずっと映画を作っていたのだけれど、小津さんの映画はほとんど観客が入らなかったんですよ。晩年の数本は割と人気があったみたいだけれど。

 なにぶん1930年代からの監督です。その小津さんの映画はずっと赤字だった。長い間松竹の社長だった木戸さんに直に聞いたんですけれども、「ともかく、小津の映画なんか全く客が入らないんだから、お前たち、小津の真似だけは絶対するなよ。小津の真似してる奴はもう駄目なんだ。ああいう映画は小津にしか出来ないんだ。しかも、あんなに損ばかり掛ける映画だけれども、あいつの映画が出ればベストテンのトップを取ったりする。いわば松竹の看板みたいなもんだ。だから、しょうがない。嫌だけれどね。あいつに撮らせて来たのさ。最近ようやく少しずつ客が入るようになったけどね」と何か、木戸さんが半分愚痴のように言ったことがあります。それから間もなく小津さんも亡くなりましたけれど、そのとき僕はそのことをとても凄いことだと思いました。「あの監督の作るものは必ず赤字だけれども、それはこの会社のひいては日本の映画界のいわば看板なんだから作らせておこう」という、ゆとりのようなものがあった。他の映画にどんどん客が入っていた。それで以て会社の経営が健全に進んでいたということがあるからだろうけれど、そういうゆとりがあって初めて小津さんの芸術が生まれたということなんですよね。

 その小津作品は、いまやおそらく世界中の映画人が敬愛している。去年イギリスの映画連盟で大勢のアンケートに基づいて作った世界の映画史の中でのベスト5に日本の映画では小津安二郎の「東京物語」が入っている。その「東京物語」は、そのような中で「またあいつ、流行らない映画を作るんだろうな。でもしょうがないわな。あいつの映画は看板だからな」という、そういう配慮の中で作られた映画であったということを思うとき、何と素晴らしい時代であったかと今思ったりする訳です。

 いま、僕たちが置かれている状態は、そんなにのんびりしてないし、そんなゆとりは無いけれど、映画の持っている非常に不思議な宿命;企業であり、ビジネスであり、同時に芸術であるという映画の二つの性格は丁度シャムの兄弟のように矛盾しながらくっついているという言われ方が昔からされています。シャムの兄弟、昔タイ国にそういう兄弟がいた。お尻がくっついていた双子ですね。本当は切り離したいんだけれど、そうしたら両方とも死んでしまう。だからシャムの双子はお尻がくっついたまま長いこと生きていたそうですね。映画における企業性と芸術性はシャムの双子だと古くから言われています。本来これは矛盾するから切り離した方がいい筈なんだけれど、そうすると両方とも萎んでしまう。<実際はその後2006年に切り離された>

 僕たちが作った「学校」が多くの方に支持されましたが、皆さんそれぞれが見て本当に心を打たれたような数々の映画、昔見た、そしてその映画なしに自分の人生はないという程の影響を受けた映画、そうした例を一杯お持ちでしょう。それらが不思議な矛盾の中で作られたものであることを思い返して、映画という若い出来たばかりの芸術の特徴について考えて頂きたいし、これからも是非映画に関心を持って頂きたいし、年に何本かは映画を見るという習慣をつけて頂きたい。

 やはり、皆さんの映画に寄せられる期待が私達を押して良い作品を作らせるという関係があるんだということを最後に申し上げて、取り留めもない、行き当たりばったりのような話でしたけれど、私の話を終わらせて頂きます。どうも長い間ありがとうございました。

*近藤委員長より

 山田監督、どうも寅さんの逸話から裏話、映画論まで幅広い話、大変貴重な話、
ありがとうございました。
 私どもから見ますと、映画は監督が作るものではない、人が作るもの、観客が作るもの・・こういったことは、すべての商品に通じるものということで大変貴重な話だと思います。
 ここで、せっかくの機会ですので質疑の時間を取りたいと思います。監督に質問のある方は挙手をしてください。

(ワープロの1文書当たり容量がフルになりました。以後は4報とします。3人の方との質疑応答が結構長く面白かったとKは感じました) 

注:当方のFAXの調子が不安定で受信できたり、できなかったりしています。
そのために、榎本社長には再三ご迷惑をかけましたし、その他の方も同様の目に遭っておられるかも知れません。******につながらない場合は自宅宛てか******にお願いします。まだ未確認ですが、本報(FAXメールのみ)の表紙に記載されている番号へも送信可能かと思われます。
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質問1 トヨタ 第1エンジン技術部 石川さん

 私、最初に先生の作品を見せて頂いたのは「馬鹿丸出し」というハナ肇さんの映画だったんですが、大変感動しまして、その後の馬鹿シリーズとか、風来坊シリーズを全部拝見させて頂きました。
 寅さんを作られてからハナ肇さんではなくて、渥美清さんに替えられたんですが渥美清さんでなければならないものとは、何だったのか疑問に思っています。

山田監督

 別にハナ肇さんに飽きたから渥美清さんに切り替えた訳ではなくて、ハナさんとも随分たくさん映画を作りました。確か8本になる筈ですね。

 「渥美清さんを主人公にしてドラマを考えられないか」という提案が僕のところに持ち込まれたので、「ああ、それは面白い」と思いました。また、ハナさんとは全く違うキャラクターですからね。僕の感じでは、ハナ肇さんは、何というか、土俗的なエネルギーというか、地方の人ですよね。それに対して、渥美さんという人は都会人なんですよね。線が弱くって、積極性がなくて、だからうんと何か人工的に作られたキャラクターが渥美清さんだろう。それで私がね、最初に思い立ったのが落語の熊さんのようなね、人間像なんです。それはハナ肇さんには出来ない。
渥美清さんだから出来るんだという風に考えて作ったのが寅さんという人物です。

 渥美さんで寅を作り始めてから、ハナさんの映画を作っていないのだけれど、何というか、勿論、条件が揃えばハナさんでやれたらと思いながら月日が経って行って、結局それができないまま、ハナさんが亡くなってしまった。それで僕は「非常に悪かった。ハナさんで何か作るべきだった」と後悔しました。そんなことですね。

質問2 株式会社槌屋 松村さん

 私は映画を月に何本か、家内と一緒に見に行っているのですけれど、映画館の中の様子を見ていると、若者は洋画を先ず見ようとする。うちのカミさんは元来の日本映画好きでして、日本映画;邦画しか見ないという風で、ずっとやって来たんですが、最近洋画も私と一緒に見るようになりました。
 そこでカミさんが言い出したことは、「良いものはやっぱり良いな」ということです。「洋画の中には、ハラハラドキドキする画面中にちょっとしたユーモアがポンポンと入ってくる。その切返しがとってもうまい」と言います。ジュラシックパークなどは2回見に行きましたが、追いかけられて食われそうになると、そこで恐竜がピュッと鼻汁を吹き掛けてみたりする。このようにハラハラドキドキの中にちょっとしたユーモアをプッと入れている。そういうものが若い人に受けるのかなと思いました。
 迫力のあるものの中で、追われて追い詰められたそのときにプッと抜けるようなもの、そんなユーモア、ペーソス、そういうものを入れることについては、どうお考えですか。

山田監督

 ・・・・・・う〜ん・・・・・・ちょっと難しい質問で、(笑い)・・うまく答えられませんがそのユーモアというのが一番難しいのですよ。先ほどちょっと話した松竹の木戸さんが「映画にとって大事なものはテンポとユーモア。その二つが無きゃぁ、楽しい映画と言えない」とよく言っていましたけれどもね。やっぱり、ゆとりが無いと現場でユーモラスなアイデアが湧かないですね。

 しかし、現実に日本の映画、とくにテレビなどはそうですけど、予算が減らされて、予算が少ないということは、短時間に撮らなければいけないということですよ。それだから死に物狂いになって映画を撮っている。夜も眠らずにフラフラになってテレビドラマを撮っているという状態なんですよ。そういう中でユーモアのセンスが出てくるということは難しい。やはり、ゆったりしてないと、作る人たちが皆、楽しくて冗談の一つも言えるという雰囲気がないと、映画にもユーモアは漂わないでしょうね。だから、とても真剣な必死なものは出来るけれど、どことなく楽しいものができない。モノを作る現場とは、映画だけではないけれど、何か窮屈になって来ている。すべて日本の文化は、そういう方向でないかと思い、非常に残念なことです。

 スピルバーグの映画はとくにそうですよね。そういうユーモアをあちこちに散りばめるように作っているけれど、それは計算ではないと思いますよ。そんなこと、計算ではできないと思いますよ。そんなこと計算して、「ここで笑わせよう」としたって笑えるものじゃないですよね。

 やはり、作る人がゆとりを持っているということでしょうね。時間的にも、経済
的にも、したがって精神的にもね。
質問3 松下の方

 ここだけの取っておきのことを二つだけお尋ねいたします。
一つは寅さんが下げているカバンの中身を教えて頂きたい。もう一つは、大事なことなんですが、寅さんのご結婚のスケジュールなど、ご披露願いたいと思います。

山田監督

 あのカバンの中身については、常に僕たちも問題にしているのですよ。一体、何が入っているんだと。ときどき開ける場面もありますから、ちらっと映ったりする訳です。「旅行に最低必要なもの」ということではない筈です。あれは寅の全財産ですからね。本来、いろんなものがビッチリ詰まってなければいけないんだけれど、・・寅のカバンは。

 皆さんでもそうでしょうけれど、外国などへ旅行するときは、もうギュウギュウ詰めになって、なかなか鍵が締まらない。押えつけたりなんかする。それが現実だけれども、理想としてはパッパッパッと突っ込んでパッとフタを閉める。アメリカの映画でよくそういう画面って、出てきますよね。そういう風でありたいと思っているのですよ。だから、ギュウギュウ詰めではない。大体現実にやっていることは先ず洗面用具ってのがあるだろう。それが入っている袋と、寅さんの泊まるような安宿にはタオルなどない場合もあるだろうから、タオルと汽車の小型の時刻表と、本なんかは読まないから絶対入っていない。あとは着替えが少々ですね。着替え言っても、あのダボシャツとステテコ二組くらい、それからちょっとした、寅さん実はセーター着たことないないけれど、薄いセーターを入れるかどうか。その辺で何か入っているなぁという風に誤魔化している訳です。・・・・で、カバン一つの中に全財産があって、おそらく貯金通帳なんか無いだろうし、……勿論、土地の権利書もない。保険証も入ってない筈ですよね。

 ただね、「そんな寅さんがいいなぁ」と、「そんな風に物欲から離れて生きられらどんなに良いだろうな」と思う憧れで、そういう空っぽみたいなカバンを持たせているのですが、大分前に、第何作だか忘れてしまいましたが、さくらさんに「お兄ちゃん、本当に病気になったらどうするんだろう、旅先で・・・・。保険だって入ってないし・・・・」というセリフを言わせたことがあるんですよ。そうしたら厚生省のお役人から手紙を貰いましてね。とっても真面目な方なんですね。「寅さんのような人でも、ちゃんと保険はカバーできる筈です。住所は柴又のダンゴ屋にしてさくらさんが代わりにお金を払って頂ければ、寅さんはいつでも健康保険が利用できるし、寅さんのようなホームレスのような人たちにもちゃんとカバーできるような仕組を作るのが我々厚生省の役人の立場です。是非、これからそのようにご配慮願いたい」と言われました。(笑い)

  僕はね。「そういうお役人って、真面目で好きだな」と思いましてね。反省したりしております。 そういう寅さんが結婚するかどうかということですけどもね。このスケジュールは恐らく、まずあり得ないんじゃないですかね。寅さんというのは、何というのかな、こう、・・・・つまり彼なりの美意識があって。それはとてもささやかなものではあるけれども、それを貫きたいというところがあるんじゃないでしょうかね。だから、女性に恋をして、「なんて素敵な女性だろう。あんな人と一緒に暮らせたら俺はもういつ死んでもいい」という風に思う気持ちについては本当に、何十回もそう思っている彼ですが、しかし、もしもその想いが果たせたとしたら、そしてあるとき彼女と結婚するとなればね。今度は彼の美意識の世界の中に無かったいろんな問題がたくさん起きてくるに違いない。やっぱり、どんなに素敵な人でも一緒に暮らすとなれば、感情的な諍い(いさかい)も起きるだろうし、経済的な問題を巡って、何やら醜い感情をお互いにふと持ったりするだろう。

 それは寅にとっては、たまらなく嫌なんじゃないでしょうかね。おそらく美意識の中にはセックスすら含まれるような気がするんですよね。そういうゴチャゴチャしたもの、ドロドロしたもの、それは寅にとっては一番不得手なんだろう。だから「なんて素敵だろう。あの人と一緒になることは俺の夢である」と思い詰めている間が華であって、寅における恋愛というのは、片想いによって完結:パーフェクトになり得るとでもいうのかなぁ。そういう人間なんじゃないかと思うんですよね。

 渥美さん流にいうと、「要するに手前が可愛いということなんでしょう。それはね。ある意味では非常にエゴイスティックな人間なんだ。もし本当に寅さんを好きになる女性が出てきたら、いや実際に寅さんはいろんな女性に愛されているんだけれども、その女性にとっては、かなりエゴイスティックな、身勝手な男にも映るだろう。非常に献身的に愛することはするけれどもね。自分の領域にどんどん色んな人を踏み込ませて、それに耐えるという人ではない。そういうことで、結局は結婚しない方が寅としては形がいいのではないか」と思う訳です。

 長い間、それでやって来たから僕たちもね、どう考えても寅さんが家に帰ると奥さんが出てくるという形は想像しにくい訳です。ましてや、子供なんか出来たらきっと具合悪いだろう。どういう子供なのか、秀才なのか、ボンクラなのか、寅の二代目なのか、その辺もまったく僕たちは見当がつかない訳でしてね。結婚そのものが永遠の憧れとしてあるところが、寅の普通の人間よりちょっと欠けたところと言うか、半端なところであると考えているので、結婚というのは難しい問題だと思います。
                                   完
あとがき

「講演要旨」と題しながら、殆ど話されたことをそのまま書いてしまいました。
お忙しい皆さんに余分な手間を取らせては悪いと思う一方、山田監督の話しぶりのニュアンスを生々しくお伝えしたいという葛藤の末、こういう形になりました……というのは言い訳でして、実情は要約する能力と意欲が足りなかったためです。

いま本屋さんへ行くと、渥美さんを偲ぶ写真集が多数並んでいます。また、ある映画館では金曜の夜に6本立て(料金2000円)でオーバーナイト興行を敢行したとのことです。

これほどまでに多くの人々から支持されていた俳優と作品について無知であったことを小生は恥ずかしく思っています。ところで、東京出身の彼があの芸名にしたのは、愛知県の渥美半島のような海の水、吹く風の清い場所に住んでみたいという憧れからだったと何かで読みました。そこは将に井上治樹さんの故郷ですね。今は玄海灘に近い土地で教授稼業が身について頑張っておられますが、春先に入院して手術まで受けられたとか。その後の回復力は20代並みだったそうですが、あまり無理せずに、次回のサンロク会にもご出席されますよう期待しております。

また、山田監督の「学校」もビデオショップを物色して是非拝見したいと感じているところです。監督の期待されるように年に何回かは映画館へ足を向け、日本の映画を観るようにもしたいと今回思いました。恥ずかしながら、娘が幼かった頃に百恵ちゃんの映画に連れていって以来、映画館で見たことは一度もありません。TVの映画ですら、2時間見続けるのが億劫に感じる有様で、邦画衰退を助長していた元凶は自分でなかったかと、不遜にも感じてしまう講演でした。皆様は如何お感じになられましたでしょうか。
           以上

『最近の国際情勢と日本の課題』 
講師:猪口邦子さん/上智大学法学部教授
    トヨタ技術会(TES)創立50周年記念講演会 第5回
     1998年3月12日(木)18:10〜19:15@本館大ホール
       テーマ:『最近の国際情勢と日本の課題』
        講師:猪口邦子さん/上智大学法学部教授

K:TES創立50周年記念講演会の最終回に上記講師が招かれました。猪
口教授はテレビでもときどき見掛けますが、大学教授より保育園の保母さん
の方が似合いそうな感じの女性です。この日は淡いピンク色のスーツを召し
ての登壇でした。身長 150センチ位の小柄な方で、話しぶりもその辺の若い
女性が仲間内での会話をしている時のトーンと抑揚でしたので、とても親しみ
やすく気さくな感じを受けました。

「上智大学では人気教授の一人ですよ」とご自分で言っておられましたが、と
にかく早口で、「あれを学生達は聞き止め理解できるだろうか?」と心配にな
る程でした。講演終了時に司会者が「機関銃のように話されまして、半分も理
解できたかどうか」と率直な感想の言葉を漏らしてしまったことからも、如何に
スピーディーな話しぶりだったかが想像していただけるでしょう。

それはTES総会が始まる前に1時間少々しか与えられなかった持時間の中
で、普段1時間半とか、それ以上掛けて話している内容を全部伝えたかった
からかも知れません。退場時に出会ったSさんは「あれだけ話すのに普通の
人なら2時間は掛かるね」と話していました。

そんな講演でしたので、速記の心得のない私が書き留め得た字数はいつも
より却って少な目になりました。まったくお手上げで空白にした部分が多すぎ
てメモを見直しても話が繋がりません。従って今回のレポートでは、私がとく
に印象深く聞いた箇所のみを紹介します。若し全容をお知りになりたい方が
居られるようなら、会場最前列で収録したMDのディスクまたはそのダビング
テープを提供します。割と聞きやすく入っています。

<講師略歴>
千葉県市川市生まれ
小学校4年生から両親の勤務の都合上、ブラジル・サンパウロで5年間を過
ごす。
その後帰国するも、高校3年生の時に交換留学生としてアメリカの名門校"コ
ンコー
ドアカデミー"に1年間留学し、同校を卒業。
1975年 上智大学外国語学部を卒業
1982年 エール大学大学院 博士号を取得
1981年 上智大学助教授
1984年から1年間、ハーバード大学国際問題研究所客員研究員を勤める。
1990年 上智大学教授に就任し、現在に至る
現在、政府の行政改革会議の委員として活躍中

<主な著書>
「戦争と平和」 東京大学出版会
この著書は1989年に民主主義の発展と確立に寄与した論文・論評に贈ら
れる吉野作造賞を受賞した。
「ポスト覇権システムと日本の選択」 筑摩書房
「世界を読む」 ご主人の猪口孝さん(東大教授)との共著

<講演抄録>
 私はここトヨタに来るときに迎えの車の中でいろんなことを思いました。エー
ル大学に居たときに先生の一人がトヨタ車に乗っておられたこと、小さいとき
から日本と海外を行き来して、日本から海外に人や企業の出ていくことが如
何に難しいかを感じながら育ったこと、近所に豊田市南部の出の方が住んで
居られて、その方にいつもお世話になっていること、・・・などです。とくにその
近所の方は、私が二人の子供を育てながら教授職を勤めているために「困っ
たときには、いつでも言って下さい」と優しくして下さいます。今日もこの時
間、子供たちは夕食をご馳走して頂いていると思います。

 私は日本を世界史の中で考えるようにしています。世界の中で日本の歴史
はトヨタから始まったのではないかというのが私の見方です。初めて日本がプ
ラスイメージで見られるようになったのは、トヨタの優れた車が世界中に出回
ったことが切っ掛けで そういう優れた技術と優しい人間を生み出している、
この豊田市という土地に対しても深い敬意と親しみを感じています。

 今日は国際政治の話を聞いていただきます。政治と経済は接点領域があ
ります。例えば、"冷戦"は経済中心の国交が活発化して、「対立していること
が不合理になったから止めよう」ということになりました。以後、直近のいくつ
かのこと、メガトレンドを中心に話すようにしたいと思います。

 アメリカでは大統領の女性スキャンダルが問題になりました。なぜこんなこ
とで国政を揺るがすようなことになるでしょうか。アメリカでは大学を卒業した
後、よい働き口を見つけるために自分でコネを築く必要から、実習生つまりイ
ンターンの制度があります。「国防省でインターンを経験した」というようなこと
が、そこでの仕事がただのお茶汲みであっても"ハク(箔付)"になるのです。
ワシントンは政治的な企みが渦巻くところなので、そんな事情からあのスキャ
ンダルに繋がったものと思われます。

 ただ、あの奥様ヒラリーさんがしっかりしている。「妻の私が気にしていない
ことを、なぜあなた達報道陣が騒いでいるのですか?」の一言で一蹴してし
まいました。彼女はエール大学の出身、つまり私の先輩なんですよ。

 このスキャンダルによる国内的なゴタゴタのために、クリントンは一気にイラ
ク攻撃に出るのではないかと懸念されたけれど「長野オリンピックが終わるま
で待とう」ということになり、この間に国連も動いてくれて一段落ということにな
りました。

 国際政治に"永久平和"は無く、日々動いていくので目が離せません。しか
し余り細かいことに捕われないでメガトレンドをしっかり押さえることが重要で
す。そのいくつかを挙げると、

1.冷戦が終わってグローバリゼーションが進んだ。
 共産圏、自由主義陣営の間で軍事的なことが優先されて来たが、それが
崩れて大きな市場が生まれた。メガまたはギガコンペティションの時代に入っ
ている。

2.情報化
 アメリカはなぜ情報革命で先んじることができたのか。それは軍事衛星で
開発した最高の技術を民需に向けて来たためで、カーナビ技術もその一つで
す。

 アメリカの世代交代と日本のそれとの違いは、"自分の価値観を持ったまま
メインストリームに上がることができる"という点にあります。ゴアの時代はパ
ソコンで育ったパソコンキッズの世代が担う。ハーバード大学に入っても好き
なことをやっている人間が居るし、それを大学も世間も認めている。

 情報化に関して日本は7〜8年の遅れと言われています。しかしこれはそ
の他一般の70〜80年の遅れに匹敵するという見方もあります。トヨタが日
本の情報化に向けて大きな力を発揮して下さることを期待しています。

3.炭素税に対する米国の消極的態度
 アメリカはアパラチア山脈の下に400年分の石炭の鉱脈を持っているの
で、それが使えなくなるような動きには積極的になれない。

(4.国際海洋年の意義)
 今年は何の年かご存知ですか。日本の新聞はこういう大事なことを書かな
いで、どこの銀行が役人にどれだけ金を使ったというようなことばかり書いて
いる。

 今年はリスボンで万博が開かれる年です。国際海洋年ということでテーマ
は"海"です。500年前の1498年にポルトガルの船乗りバスコ・ダ・ガマがイ
ンド航路を開拓して、これでヨーロッパから見ると世界制覇が成ったのだし、
アジアにとっては悲劇の始まりでした。

 日本人は損したことを気にすることが少ない国民だから、余り気にも止めて
いないけれど、あのガマの功績は世界各地に大きな影響があったのです。

 当時、ヨーロッパ人が買いたいものがアジアに沢山ありました。香料、紅
茶、焼物など。過去500年間でヨーロッパはアジアに対して常に黒字だった
ように見えますが、500年前の一時期だけは大赤字だったのです。

 アジアの品物を運ぶのに陸路のシルクロードは危険が多く、多くの政治権
力が絡むので通行料を取られたりして非常に高くつきました。インド航路がで
きてヨーロッパはアジアに対して金・銀で多額を支払う一方でした。アジア側
が欲しがるようなものはヨーロッパに殆どなかったからです。

 やがて南米で銀山の開発をしてまでアジアから物資を輸入しようとするので
すが、それでも間に合わなくなり、帝国主義による植民地化政策へと変貌し
ていきました。そのため日本を除くアジアのほとんどの国が植民地となって長
い間ヨーロッパの支配に苦しむことになったのです。

 先ほどの"情報化"は、ガマのインド航路発見に匹敵する大変革であると私
は思います。例えば、私が学生に宿題を出すと、アメリカの教授にインターネ
ットで伝えて回答をもらい、その翌日には立派なレポートを提出してきます。

 今まで相互の情報交換を阻んでいた距離・国境・地位・男女差・年齢差など
全ての壁が無くなり、自由に提供したり入手できる時代になってきました。

 この情報通信の利用を一番熱心に進めているのは、今まで悔しい思いをし
てきた国や人です。100万人当たりのインターネット利用者で見ると、ノルウ
ェー、アイスランド、フィンランドといったインド航路発見以来、辺地化して物流
で地理的に遠方というデメリットに苦しんできた国々です。次にオーストラリ
ア、ニュージーランドで、続いて植民地化されたフィリピン、・・・などです。日本
はそういう悔しさを感じないので、ずっと遅れている。日本は内需が大きいの
で、世界の動向に敏感でないという面もあります。トヨタのような会社に是非
この遅れを取り戻して頂きたいのです。これからの500年は、今まで損した
国が「二度と損したくない!」ということになるでしょう。

 米国ではSOHO;Small Office,Home Officeが盛んで、情報システムという
ほど大げさでなくても情報を介した新しいビジネスが沢山生まれています。

 例えば、買物をするのに日本でも通販が盛んですが皆同じものを送ってくる
のですが、英米では若者マーケットに向けたビジネスから、その子供が育っ
てくるとキッズマーケットにも拡大してきました。日本で買えば2万円する品が
米英仏から2千円で買えるという状況です。彼らは顧客一人ひとりの傾向をよ
く研究していて、「この家では奥さん用の品は非常に高い品にしか関心がな
い。子供用の服は頻繁に買い、概して高級好みだ。旦那さんのための品は
殆ど買わないし、買っても一番安いランクである」というように過去の実績から
読み取って、それに合わせたカタログしか送ってこない。突然家具を注文した
りすると、「新しい家に移られたのですか。おめでとうございます」というような
社長名のメッセージが届いたりもします。

 日本ではSOHOなどという表現でなく、"零細企業"というマイナスイメージ
の暗い表現が使われたりしがちですが、労働組合は賃上げだけを闘争のポ
イントとしないで、「好きな仕事を伸び伸びやらせてほしい」というような要求も
出して、企業内にも小さいビジネスの芽が育つような方向を目指すべきでしょ
う。

 注:Vasco da Gama 1469-1524 ポルトガルの航海者。1497年、リスボンを
出帆、アフリカ南端の希望峰を回航してインド航路発見。晩年はインド総督。

5.民主化;デモクラタイゼーション
 第2次大戦は核爆撃によって終結しましたが、その後の戦争は「"冷戦の終
わり"で終わった」と言えるでしょう。では何で冷戦は終わったのでしょうか。
米ソが貯め込んだ核兵器は使わないまま終わっています。それはベルリンの
壁を何万人もの普通の人が金鎚で壊すのをテレビで世界中に放送するので
警備兵も発砲できなかった。冷戦時代に核兵器が占めた地位を今では民主
主義が占めています。従来は密約で終わった事柄が世界の注目する中で行
なわれるようになりました。カンボジア和平の場合は総選挙をさせるという、
選挙のやり方を変えることで実現しました。

 アメリカでは軍事的に勝利しても民主化に成功しなければ、"勝利"とは認
められません。冷戦期には核を持っていることが偉いと思われていたが、今
は民主主義かどうか、その民主主義も真っ当なものかどうかが問われている
のです。

 識字率の低いカンボジアなどの国でも高い投票率の選挙が出来たというの
に、高学歴、高識字率の日本では史上最低の投票率という有り様で情けな
い限りです。

 経済も民主主義に相応しい構造を持たなければならないと思います。

6.女性の登用
 男女の両方を使わないと外国にハンデを背負う時代になってきました。欧
米では既にそうなっていて、政治の分野で見るとフランスでは8人の女性大
臣がいる。日本は先進国の中では最低レベルに留まっています。経済企画
庁がまとめた国民生活白書で今年の特集が"働く女性"となっており、その分
析が奮っています。『収益率の落ちているところほど、女性登用率が低い』と
のことです。農業理事は0.3%。これでは衰退するのも当然というわけで
す。1/3くらいは女性に任せて、今までのやり方に拘わらない運営を図るべ
きでしょう。

 私は農業のネットワークに加入しており、スーパーの3倍も高い野菜の直送
を受けています。スーパーなら300円のニンジンを900円で買っても、それが
安心なものなら高いとは思いません。タクシーで買いに行ったり、喫茶店にで
も寄ろうものなら、それ位の差額はすぐ埋まってしまう。世の中は価格オンリ
ーの時代ではないのです。

7.ヒューマンセキュリティー
 人間の安全保障ということです。沖縄で少女への暴行事件があったとき
に、アメリカの高官が「一人の少女の安全を保障できない安全保障では、国
の安全を保障し得ない」と認めたのは素晴らしい発言でした。

 安全が何よりも求められる時代ですが、車に於てもそれはドライバーの安全
だけでなく、歩行者、とくに高齢化社会に愛される車である必要があるし、車
側だけではなく歩道整備も不可欠です。歩道によって車と人間が安全を分か
ち合わなければならないのですが、実情はどうでしょう。人が住まないところ
には立派な歩道が設けられているのに、一番人通りの多い地域には殆どな
いという感じがします。永田町、大手町、内幸町といった住民が少ないとこ
ろ、永田町には民家が一軒しかないない、そんなところには歩道が付けられ
ている。住宅地の中の道では相当交通量が多くても歩道がなくて、車が来る
度に身を横にして守らなければならないという有り様です。これはアメリカでも
同じです。日本は何でも東京が進んでいるということですが、車の町、豊田市
から歩道の整備を徹底して頂きたいと思います。

8.環境重視

9.専門家の時代
 冷戦時代は権力者の時代でしたが、いまや専門家の時代と言えるでしょ
う。標準設定能力、世界のリーダーシップを発揮できる人、そういうスタンダー
ドを設立できる人が長く影響力を発揮できる時代となります。

 その場合に英会話の能力は必要ない。ほかの人ができることは頼めばい
いのです。丁寧にお願いできる心を持っていれば十分です。ただ、論理的に
話さなければいけない。英語に堪能でない人がブロークンでも内容がしっか
りしたことを話していると、満場がシーンと静まり返ります。逆にペラペラ流暢
に喋っていても、会場がザワザワしているのは内容が無いからです。

最後に
 上智大学での教育において私は「人を選ばない」という方針でやっていま
す。ゼミで私の講座に希望者が殺到します。私は人気教授なんですよ。それ
で50人も希望が寄せられると一応定員とされている30人になるように、以前
は成績順に選んでいました。

 しかし、あるときから入りたい人は全部入れるようにしました。そうしてみる
と何も問題はありません。人は皆いいものを持っています。中には英語がさっ
ぱりできなくて、「これでよく上智に受かったものだ」と思うような学生も居ます
が、そういう人が立派なレポートや論文を書いたりします。

 いろんな人が居るけれど、皆受け入れて人の心を開いていくようにしていま
す。そういう人に私が選ばれたのだから、自分が選ぶべきでないと思うので
す。そしてやりたいことをやらせる。何をやりたいのか、それが分からない人
も多いので、いろいろヒントを与えるようにしています。

 トヨタさんの中でもそんな形でやれる雰囲気とか組織を創っていったら、ま
すます情報化社会に適合した人材が育って行くのではないでしょうか。
                                              
                       完
------------------------------------------------------------
K:いつもまともな報告が出来ない言い訳ばかりしていますが、今回もゴチャ
ゴチャそんな前置きをしながら結局は長文の駄文になってしまいました。猪口
さんが話した言葉数はこの10倍はあった筈であり、聞き漏らしたり書くことを
省略した中に、皆さんにとってはもっと価値のある話があったかも知れませ
ん。

 首尾一貫性のないのも私の悪癖の一つで、記載した事項は講演の一部で
はなくて、ほぼ全体をおさらいした形になりました。表記は必ずしも講師の発
言通りではありません。「大体こんな感じの話だったのか」ということでお読み
頂ければ幸いです。
                                   1998.3.13  kay  
                          
------------------------------------------------------------
Aさんより

ありがとうございました。
少し遅れて、聞きに行きましたので、参考になりました。
小生の家でも、有機野菜を購入しておりまして、心強く感じました。
ただ、沖縄の話も確かに立派かもしれませんが、現実をよく見ていないところ
もあるのかな、と感じました。
メガトレンドとして核の保有の話がありましたが、チェリノブイリの話が抜けて
いるかなというのが、感想です。           3/15
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Sさんより

早速猪口教授の講演会の議事録を読ませて戴きました。完全に全てを収録
して居られます。感心するばかりです。
私も聞きに参りましたが、追加補足すべきところはありませんでした。
御苦労様でした。

私の感想を書かせて戴きますと、
1) だいたいにおいて、「政治経済学者の講演で面白いものはない」というの
が、私の経験則です。従って割り当てで駆り出されたので、聴衆したのです
が、ゆっくり睡眠を取ろうと思っておりました。しかるに予想に反して大変面白
い内容でした。最後まで全ての言葉を把握いたしました。

2)最もびっくりしましたのは、黒柳徹子さんや故ケネディを上回る機関銃のよ
うな早口の人であったことです。(あれでは内容が詰まらないにせよ眠れたも
のではありません。)あれだけ早口の割に言い間違いは殆ど発見されません
でした。頭の回転が早いということであろうと思います。多分エール大学のゼ
ミでの討論でも早口の英語をまくし立てて博士論文を取得したのではなかろう
かと邪推したものです。

3)身近でずっと喋り続ける女史を見ておりまして、この人と結婚して家庭を営
んでいたら(勿論有り得ないことで、向うから断られるでしょうが、仮定(家
庭?)の話です。)どのような家庭になったろうかということです。多分今以上
に家で無口になり、今以上に人間ができて人格者になったのではないかと思
いますが、kayさんは如何でしょうか。

4)子供さんが2人居ると言われておりましたが、2人共女の子さんのような気
がしました。理由はクリントンのところでも女の子1人ですから。なんとなくそん
な気がします。(大きなお世話だ。講演内容の方をもっと考えよ。わかりまし
た。)
                     平成10年3月13日 
いま、日本で何が問題か  三宅久之氏
三宅久之氏プロフィール 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三宅久之(ひさゆき1930年1月10日〜)は日本の政治評論家。東京都出身。
1953年に早稲田大学第一文学部を卒業後、毎日新聞社に入社。政治部記者から始まり、政治部副部長、静岡支局長、特別報道部長を歴任し、1976年に退社してからフリーの政治評論家となる。1976年から1985年まで、テレビ朝日の「ANNニュースレーダー」の木曜から土曜までの司会を担当。その後「やじうまワイド」にコメンテーターとして出演。歯に衣着せぬ辛口評論で茶の間の人気を集め、テレビでも活躍するようになった。

現在「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日系)や「たかじんのそこまで言って委員会」(読売テレビ)などの討論バラエティー番組にレギュラー出演中。番組中ではタカ派の代表的論客。

読売新聞会長の渡邊恒雄と親しい。
座右の銘 : 「愛妻 納税 墓参り」

講演概要
今日はお招きいただきありがとうございました。本来なら立ってお話しするところですが、なにぶん“ご高齢”ですので、座ってやらせていただきます。私は今75歳です。

私もいろんなところで勝手なことを言っていますが、テレビの影響というものは大したものです。テレビ朝日はつまらん番組が多くて視聴率もサッカーなどの中継をするときを除くと概して低いのですが、「たけしのTVタックル」だけは視聴率が高い。関西の番組で読売テレビ系の「たかじんのそこまで言って委員会」も日曜の昼間ですが、好評で1時間番組だったものを1時間半まで延ばして放送するようになっています。そしてときどき視聴率が20%を超えています。

そういう番組で私が何か言うといろんなヤジが聞こえてきます。しかし、余命いくばくもないこの歳になったら、何も怖いものはない。「嫌なら見ないでくれ!」というだけです。インターネットでは私のことをハゲと言っている。

<インターネットBBS例>
AB型は悪いぞ!:2005/05/19(木) 09:07:05 ID:Jfb/hMqI
TVタックルの三宅久之(AB型のハゲ)がAB型の短気さを全国ネットの場で自ら体現。
興奮したゆでダコの口から出てくるのは「支離滅裂で矛盾した幼稚な詭弁」だけ。
それにしても、AB型にはロクな奴がいないwww

● 「明日の日本を救う!」コーナー(不定期)
「外国人記者クラブ」「三宅久之の新人記者よ!政治にハゲめ」「臨時ニュース」など好評のミニコーナーも不定期に開設。また、政治家になりたい人を応援する「浅草政経塾」を開講予定。

小泉純一郎は、これほど強運の人間はいないと思う。中曽根さんも自分で運の強い人間だと言っているが、小泉さんには及ばないと認めている。今年4月に福岡2区と埼玉8区で衆議院議員の補欠選挙があり、どちらも自民が勝った。福岡は山崎拓、通称エロ拓が勝った。これ一つ見ても運が強い。内閣総理大臣を5年もやっていて支持率50%を維持している彼に代わる者が党内に誰もいないのが現状です。自民党にはロクなのがいない。この前、亀井静香という静かではない男にご馳走になったときに、「現職総理をリコールでやめさせる規定があるので辞めてもらう。郵政民営化だけでも辞めさせられる」と言うので「辞めさせて誰が総理になるのか」と尋ねたら、「俺がやる」というので、「ご馳走になってこんなことを言うのは失礼かと思うが、あんたはそんな器でない。あんたが切り込み隊長としてやるとしても、自分で総理をやるというのは駄目!」と諭してやりました。

田中真紀子を総理にすると良いという人がいますが、あの人には決定的な難点があるから駄目です。それは慢性ヒステリー症候群。田中角栄が存命中、真紀子にヒステリーの発作が起きたとき、「真紀子、やめなさい!」と言ったら、「このクソオヤジ!!」と叫んで、箒(ほうき)を持って家中追いかけ回した。彼女の旦那、直紀さんは真紀子の発作が起きると二階の部屋に閉じ籠って30分じっと待つようにしています。

こういうヒステリーの人を総理大臣にしてはいけない。アメリカの大統領も同じです。大統領は頭がよくなくても良いが、核戦争のボタンを押す権限があるので冷静な人間でなければならない。日本には核戦争のボタンはありませんが、ヒステリー人間では駄目です。

その他というと石原慎太郎がよく話題になります。40何年か前、私は彼より三つ年上ですが、毎日新聞の記者の名刺を出して挨拶したら、「そんな仕事をしていて空しくありませんか?」と言いました。彼が外洋帆走ヨットレースを開催していて遭難事故が生じたときに、海上保安庁に捜索依頼をしたことがあります。私はヨットレースのような遊びをしていて危なくなったからといって公費を使わせるのはけしからんという記事を書きました。山の遭難であっても同じです。税金の無駄遣いです。漁師が職業として海に出ていて遭難したのを助けるのとはまったく事情が違う。危ない遊びをするなら、いざというときに救助活動をしてくれる会社に前もって金を出して依頼するのが当たり前ではありませんか。そのとき彼はなんと言ったと思いますか。「君はヨットに乗ったことがないだろう。だから発想が貧しいのだよ」でした。とにかく身勝手な男です。

総理は国会議員の中から選ばれるものですから、今のままでは総理になれません。記者会見で自らも否定した。国会議員に当選してやり直すという手がないわけではないけれど、ヒラの代議士に戻る気はない。自民が割れ、民主の一部とか、その他がまとまって彼を担ぎ出すという状況となって確実に総理になれるときにはその気になるでしょう。それにはいくつもの条件が揃わなければならないし、彼も72歳。70を超えると元気なようでも体力的に大変です。彼はジャンパー、それも仕立てのジャンパーを着こなし、かっこよく見せることには長けています。いまどき仕立てのジャンパーを着ているのは、世界中に彼を含め二人しかいない。もう一人は金正日です。


民主党の岡田代表が党内の規約の明確化に努めていることなどはよいと思うのだが、この人は雑談・漫談ができる人ではない。

とにかく堅いだけが特徴の人で人の気持ちを汲む能力に欠ける。たとえば、党内の若手が勉強会をするということで岡田さんを呼ぶとき、彼から何がしかの資金を出させたくて声をかけているということがわからなくて、会費3000円と言われれば3000円5000円なら5000円しか出そうとしない。1万円札しか持ってないとオツリまで受け取っている。

あるとき、コーヒーとケーキが出るという会を記者連中や我々を集めて開いたときに「今日は私のオゴリです」ということを3回も繰り返して言った。フランス料理のフルコースでも出してくれるというならまだしも、コーヒーとケーキくらいなら自分で払ったほうがよほど気分がよい。こういうことがわからない人ですから国民全体のことなど本当に考えられるのかどうか疑問に感じてしまいます。

小沢一郎は。一応の人気があるようですが、反対の人も多い。

私は小泉さんで一番無責任と感じるのは、消費税を自分が総理をやっている間は上げないと言っていることです。消費税を上げなければ、昔のように所得税を上げざるを得ない。以前、日本では個人の所得税を最高70%も取った上、市県民税でさらに15%、トータル85%も召し上げていた。どんなに努力をして死に物狂いで稼いだ金であっても収入が多くあれば当たり前のように徴収してしまう。それを今はやっと50%まで下げてきた。


現在国庫は収入が44兆円で、支出は82兆円ということになっていて、このアンバランスを是正するには消費税を上げざるを得ない状況です。それを自分が在位の間だけ放置して、問題を先送りするのは卑怯なやり方です。

国民年金の場合も入るべき人2200万人のうちの1000万人、実に4割の人が入っていない。これでは制度が成り立ちません。

テレビタックルの番組で厚生労働省の役人と同席したときに、「年金を毎月13300円払っているまじめな人が65歳からもらえる年金額は月額65000円でしかない。ところが、年金を1円も払わないまま老齢化した不届き者が「もう働くことができない。収入がない。生きていけない」と言って生活保護の申請をすると月額15万円も支給される。この矛盾を厚生労働省はどう考えているのか」と質してやったら.「それをこういう場で発言してもらってはいけない」という。「どうしてか」とさらに追求したら、「そういう実態が一般に知れ渡るとますます年金を納める人が減ってしまうから困る」というのですね。

先ほども言いましたが、小泉さんが自分の時代には消費税アップをやらないというのは不見識です。人気の悪いことも敢えてやらなければいけない。

日本の人口は再来年から減少に転ずるという。65歳以上の高齢人口が2500万人、20%を占め、年少人口1700万人、14%という状況になる。女性一人あたりの出生数が1.29人で、人口統計をまとめている間にまた1.28まで下がっている。このままでいくと厚生労働省の予測以上に人口が減少し、100年後には4080万人になるとか、1000年後には27人にまで減ると計算している人までいます。こうなると佐渡のトキ並になり繁殖力を失って絶滅の危機に瀕する。

解決策は移民を入れることです。現在でも200万人くらい日本に在住しているのですが、年100万人レベルで入れていくと日本の人口問題は心配なくなる。

ただ、いろんな国のいろんな宗教・習慣の人が一緒に暮らすようになると難しい問題も出てきます。私がイスラム圏を旅行していたとき、運転手が砂漠の真ん中で突然バスを止めてお祈りを始めたときには参りました。エンジンを切ってしまったので車内は灼熱地獄でした。このように宗教上の習慣の差は大変な問題です。

日本では25から29歳の女性の未婚率が54%で、結婚している人でも一人生むと二人目は生まないという人が多くなっています。「将来の教育費負担に自信が持てない」というのが、理由のひとつになっている。

アメリカの出生率は2.1ですが、WASPは低く、ヒスパニックや黒人の出生率が高いので現状維持ができる出生率を確保している。

出生率は、日本、ドイツ、イタリアが特に低い。これは日独伊三国同盟のタタリだという説があるけれど、本当の理由はよくわからない。とにかく日本で2.0まで回復させるのは至難の業です。竹村健一氏は「フランスなど欧州の主要国でも6500万人程度の人口でうまくやっているのだら、日本の人口が半減したって構わない」などと発言していますが、ピラミッド状の人口構成で6500万人ならよいけれど、日本は逆ピラミッドになるから大問題なんです。

いまジェンダーフリー運動が盛んです。彼女らの運動、たとえば田嶋陽子などは日本民族を滅亡に導くのではないかと危惧します。彼女らのやっていることはオスのメス化運動です。赤ちゃんが生まれたときに産着の色を女の子と男の子で変えるのはよくないなどと言っている。ランドセルの色を女の子は赤、男の子は黒と分けるのもよくないと騒ぎ立てています。「5月5日が祝日であるのに、3月3日が祝日でないのはいけない」とも言うから、「3月3日を祝日にしてくれと言えば良いじゃないか。ついでに4月4日をオカマの日にしてもいいぞ」と言ってやりました。

こういうおかしな女、田嶋陽子のようなやつを呼んで講演会をしたり施政指導を受けるスットンキョウな自治体があって、言われたことをマジメにやるところがあるのは嘆かわしいことです。

男にしゃがんでオシッコさせるのもジェンダー運動の一つだそうで、この頃男性の三人に一人は家庭内の便所でしゃがんで用をたすようになったのが成果だと吹聴しています。便器のふたを上げないままオシッコする男性が多いので、便座にシブキがかかって不潔であるということが発端のようですが、人間を含め動物一般にとって排泄中は一番外敵に狙われたときに無防備な状態なのです。それで猿が二本足で立つようになって人類に進化していく過程で、オスは立ったまま周囲の状況を把握していざというときにはメスや子供たちを守るという習性がついたのです。

公立施設で医師、看護士、ダンプカーの運転手なども女性に解放されている職種であることを明示せよという“ご指導”もなさっているようです。

日本が封建社会だったころ、民衆は一方的・過酷に収奪されていたというように認識されがちですが、たとえば江戸時代でも日本では庶民にいたるまで教育水準が高かったのです。私の出身地 倉敷は天領で財政も豊かだったけれど、一揆が起きると代官もお家断絶をさせられるということもありました。知的階級の武士が禄を離れて寺子屋を開いたりしたので、識字率は40%、女子でも15%でした。

明治初め、1877年に東京の初等学校のレベルの高さを欧米人が見て驚いたという記録もあります。小学校の就学率98%という状況でしたから。

現在は基礎的学力の低下が著しい。小学校でゆとり教育など必要ない。インドでは2桁の九九を強制しているくらいです。文部科学大臣の中山成彬(なりあき)さんは立派な方ですからいずれ教育制度をまともにしてくれるでしょう。

小泉さんの靖国参拝が内外で問題視されています。彼は私にはっきり「行きます!」と言いました。「中国は私が行くことを知っていますよ。行くなと言い続けると少しは変わるかも知れないという儚い期待は持っている」ということでした。私も一般参拝者として出かけたことがありますが、終戦記念日8月15日などに行ったら、右翼の街宣車が「海ゆかば」「荒鷲の歌」「燃ゆる大空」といった軍歌をあちこちからスピーカーでガナリ立てているし、軍服を着た80代の男がうろついていたり、何とか顕彰碑を建てるから寄付せよという連中がどっと取り囲んだりしてとても落ち着いてお参りなどできたものではありません。私の予想では、小泉さんは8月15日に今までと同じ格好で参拝することは避けるでしょうが、プライベートな立場にするということで靖国神社へは行くことにするでしょう。

戦争責任者はB、C級の中に気の毒な方が多い。「上官が適正に処置せよとは言ったが殺せとは言っていない」として免責され、部下が責任を負わされ処刑されたりしている。

本間雅晴 [ほんま まさはる] 1887年11月27日生〜1946年4月3日没は、新潟県出身の日本陸軍軍人で陸軍中将。陸士19期、陸大27期。日本陸軍には珍しい知英派で陸軍きっての文人将軍。
比島作戦のバターン半島攻略戦で、与えられた不十分な戦力で全力を尽くしたにも関わらず、その指揮が消極的で、かつ大本営や南方軍の意にそまなかったなどと言いがかりをつけられ予備役に編入させられる。
戦後、戦犯容疑で逮捕、マニラの軍事法廷において「バターン死の行進」の責任を問われて銃殺刑に処せられた。

毎日新聞の記者 塩見和夫は上海から南京への従軍記事として、戦争放談というか作り話で一人の兵士が軍刀で106人も斬り殺したようなことを書いたために処刑されている。
当時の刀は“昭和新刀”と言われるブリキ細工のような刀でリンゴの皮くらいなら剥けたかも知れないが人を斬ったりしようものなら二度とサヤに戻せないようなもので真実でないことは明確だったにもかかわらず……。

昭和28年に国会決議でBC級の家族にも遺族年金が支払われるようになったのは、そうした軍事裁判の実情に鑑みての措置でした。

マッカーサーも退役後に「日本が起こしたのは自衛戦争であった」と認めている。

韓国は大人気ない国です。過去に国と国が交わした条約を、今の大統領が決めたことでないからご破算だということでは国交などできたものではない。外務省も町村外務大臣になって少しは筋が入ったので今後を期待しましょう。

ちょうど、時間になりましたのでこれで終了とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
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<メール応答>

STさんより

楽しみに待っておりました「三宅久之氏講演」の議事録をお送り戴きまして、有難うございました。

2時間近くの長時間の講演会において、議事録を取られるのは大変なご苦労であったと想像致します。

しかし、私などのように出席できなかった人間にはその場の雰囲気まで伝わるものであり、本当に感謝しております。

本では書けないような、その場限りの取って置きの内輪話やエピソードが散りばめられていて、興味の尽きない内容でした。また、氏が歳を感じさせない歯切れ良い話ぶりですので、きっと会場が沸いたのではないかと想像できます。

氏が感じ良いと思っている人物や面白くないと思っている人物(石原慎太郎知事、岡田代表)などが正直に語られているので、面白く読ませていただきました。岡田さんは私も選挙演説の折りに直接間近で見聞きしましたが、確かに硬過ぎて、真面目過ぎて、いくら聞いていても全く面白いという感じがありませんでした。話が逸れたり、エピソード話になったりが全くなく、ただただ正論を抑揚なく喋るだけなので、従来の政治家にないタイプと思いました。従来のタイプが薄汚れているのに辟易とするときにこそ、その価値も認められるでしょうが、やはり大衆には受けないと思った次第です。とても三宅さんの講演会ほどの時間聞く気にはなれないでしょう。

ご多忙の中に議事録をお送り戴きましたこと、心より感謝申し上げます。


三宅久之氏講演(2)完結編 メール応答(2)
at 2005 07/02 14:12 編集

KYさんより

 お送りいただいた三宅氏の講演概要を拝見いたしました。いつもの事ながら、講演を聴きながらメモをとって整理されると言う離れ業には感嘆しています。

民放テレビを殆ど見ないので、三宅久之氏の事は全く知りませんでした。ご本人が言うくらいですから、テレビの影響とは大したものなのでしょう。テレビ報道が政治家の人気(支持率)を左右し、選挙での投票行動に繋がっているとしたら日本の民主主義も実に危ういものです。”冬ソナ”で韓流ブームが起きた程度なら罪もないですが、見識がこの程度の”政治評論家”の言動が公共の電波にのって囃されているとしたら、日本列島が沈没するのも遠い将来のことではないかもしれません。

ナチス・ドイツがユダヤ人を迫害しながら周辺諸国を戦争に巻き込んでいった悲劇は、ヒットラーが国内貧困層の大人気にのって選挙で圧勝したことに端を発していた事実を忘れないようにしたいものです。

 政治家のつとめとは、”経国済民”であり、政治評論家とは政治がその方向で行われているかを評価し、質していくべき人々でしょう。”経国済民”とは、貧困を撲滅し、故無くして虐げられた階層を無くすことだと思います。

古今東西、国内や国際間とを問わず、常に”貧困”こそが大きな騒乱のもとになるのであり、「貧困とは、等しからざるを言う」ことを忘れないようにしたいものです。洋の東西で諺になっている通り「豊かなる者は、ものを持つ(足るを知るも者は豊か)」、「貧しいとは、物を持たない事ではなく、欲望の大きいことである」なのであり、経済規模の大小ではなく経済格差の拡大が”貧困”を産ん
できたのです。

現世界でも、大きな国際紛争や社会不安から治安悪化を招いているのは、国家間や国内で大きな所得格差が生じてしまっているからです。アフリカの一部に見られる飢餓を伴う絶対的な貧困は悲惨ですが、古代社会からすれば現代社会にはモノが溢れています。その中で多くの庶民が”貧しい”と感じているのは、欲望を刺激する各種報道にさらされていることと、”故なく”して圧倒的に豊かな生活をしている階層が存在することを知ってのことです。

世襲で特定郵便局長になっていることや、マニュアル通りに仕事を処理していればよい官僚、公務員や公団職員が倒産失業の恐れも無しに高給を得ている等もその典型です。それに焦点を当てて民営化を推進する小泉首相は、決して”強運”の人なのではなく、ヒットラーも顔負けに危険なほど”庶民の不満の元”を感知する嗅覚に優れた政治家であると言うことです。集票マシンとして村社会に有効な特定郵便局長にベッタリの守旧派は論外ですが、アメリカや金融機関からの圧力で郵政省を解体民営化するのも大きな問題です。

アメリカのここ数代の大統領を見ていると、頭の良さは勿論のこと政治家に人格や識見の高さを求める必要もないことがよく分かります。ブッシュ・ブレアのコ
ンビが世界に広めよとしているアングロサクソン流”健全な民主主義”とは、政治家(為政者)を選挙民の平均レベルに留めることとしていますから当然のことではあります。アーリア人発祥の地を自認し、”高貴なるアーリア人”を国名にしたイランは彼らアングロサクソンにとって目の上のタンコブなのでしょう。それに、彼らがローマ帝国から文明化に適わない蛮族として扱われていた時、古代
ペルシャ帝国は既に豊かなアジアで最高の文明社会を経験していました。

イラン国民が、カネまみれ選挙で当選した彼らとは対極にいる清貧・質素を通してきたアクマディネジャト氏を大統領に選んだと言って、アメリカ政府首脳にイラン国民を非難する資格があるとは思われません。

日本の現民主主義は、田中真紀子や石原慎太郎を人気投票で首相に選出する危険をはらみ、第三帝国のナチス・ドイツや軍国日本を再現する危機的な状況にあると思います。

今の日本では、ギリシャの衆愚民主主義や寡頭政治の共和制ローマに限界を感じ、帝政ローマに舵を切った民衆政治家カエサルの様に、大帝国の隅々にまで文明化と治安安定を実現した政治家の出現は望めないということでしょう。かの社会では、豊かな層は公共施設の建設に私財を投げ出したことが知られています。

それを期待できない社会では、累進課税による最高所得税率が下げられたのは意識”貧困”層を拡大する効果を産んだだけでした。私は寡聞にして”死に物狂い”の努力で税率70%の高額所得獲得に至った例を知りません。しかし、”貧困”層から抜け出せずに死に物狂いで働いている例は多く見ています。

財政赤字の解消は悲劇的な社会破綻を回避するために必須のことです。しかし、消費税を上げる場合には公務員の総給与を同じ額だけ下げるのでなければ無責任と言うものでしょう。

税制による所得の平準化もそうですが、社会保障費支出とは基本的には「治安の安定した住み易い社会を実現する」ための政策で。”貧困”が社会不安と各種犯罪を誘発して治安悪化を招くのは明らかで、その対応策として警察官を増やすのは”警察国家”につながる全くの下策だと思います。

古来、全ての戦争は自国ないし自民族の安全や豊かさが脅かされたことに対する”自衛の為”の戦争でした。日本列島に住む民は、好太王の碑文に見られる通り倭人の昔から半島深くに攻め込み、天智天皇や秀吉も半島に兵を進めました。

しかし、蒙古に支配されていた時代以外、漢民族や漢民族が列島に攻め込もうとした史実はありません。我々は、北東アジアにあって古代から好戦的な民族であったことを認識し、半島や中国大陸を武力侵略した史実をドイツ同様に真摯に反省すべきです。

中国大陸や朝鮮半島の人々に比べ、日本人の豊かさは群を抜いています。生活保護を受けている人々でもかの国々の平均よりは豊かな生活をできています。”金持ち喧嘩せず”で、周辺国にはオトナの対応をしていきたいものです。しかし、国内にあってのそのレベルの”貧困”層拡大も社会を不安定化していることは事実です。その層の不満を、周辺国都の緊張関係を高めて逸らすのは老獪な政治家の常套手段です。その愚を問うのこそがが、政治評論家の務めでしょう。

日本の政治家が、当時の政治家が受け入れている戦争裁判を無効と言って靖国神社に参っている時、韓国が植民地時代の条約を無効だと言っているから大人げない国とは言うのは、天に唾する愚かさです。私は、”靖国”とは国家が民の命を只で調達するために設けた機関と思っていますから、それを存続させようとする権力者には危険思想以外の何物をも感じません。

日本の人口減少は、京都議定書に沿った地球温暖化防止目標実現でも結構なことではないでしょうか?。若年層の比率が少なくなって年金が破綻したら、高齢者にも体の動く限り働いてもらえる場を提供していけるような社会を実現していけば良いことです。縮小した年金でも、節約して生きていくという智恵ある選択肢もあることでしょう。

先日の講演で、義務教育レベルでの不登校児童比率が増大しているとの報告を受けました。そんな児童の受け入れに各種施設の開設も進みつつあります。我々のガキの頃には無かったことですが、そんな児童の社会不適合になった原因の最大のものは、「親との信頼関係が結べていない」とのことでした。極論するなら、最近のペットに問題行動が多いのは、「早く親から離しして売られてしまうからだ」とペットショップの営業方針が問われていたのと根は同じです。人間の子供も同じで、母親が胸の心音を聞かせながら母乳で育てることをせず、早くから幼稚園や保育園に預けて働きに出、小学校低学年で鍵っ子になってしまっていると肉親とすら信頼関係が結べずに精神的に不安定になる筈です。

”冬ソナ”現象に見るまでもなく、女性は情報や周辺環境に影響されやすく、テレビや映画に見る世界に自分が到達していないと”自分は貧しく不幸である”との強迫観念に囚われ、亭主の尻を叩くばかりか、僅かばかりのパート収入を求めて家庭を放り出すのにためらいがありません。これは情報に溢れた先進国共通の現象ですが、中でも宗教への信仰心が薄くなっている国ほど深刻になっていると
も感じました。女性の社会進出に規制のあるイスラム圏の諸国では、街角の子供達に見られる目の輝きや落ち着きで家庭環境の落ち着きを読み取れたことです。

あの程度のことを喋ってギャラが貰えるほど、日本とは政治の世界に人材が払底した国になってしまったのでしょうか?


Oさんより

こんばんは、真夏日が続きます。その後の体調は如何ですか?

毎度、ユニークな講演会の情報ありがとうございます。

三宅久之の辛口診断を拝読しました。
いろいろな人の意見も面白いですね。
そういわれればそうかなーと思うような意見ですよね。

さすがに、講演会のプロですね。
TVではそこまでなかなかいえませんよね。

こちら、終戦60周年を記念して、B29の続編をアップしました。

お暇な時にのぞいてください。第5・6・7章を追加しました。
日米同時進行中です。

先日も、朝倉さんのHPを見て、
主人をなくしたWeb siteの儚さをしみじみと感じたりしています。
我々のSiteも何れ漂流し、消え去るのみですね。

おやすみなさい。

JA2TKO B29 HP:http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/
Yamabiko's HP:http://www48.tok2.com/home/yamabiko/


Iさんより

貴重な講演記録、ありがとうございました。

小泉首相が消費税を先送りにしている事に対しては、私も反対者の1人です。早く20%程度に上げないと困る事は解りきっているのに、自らの保身のために人気取り政策を強行しているからです。

公務員の大幅な削減と、給与のこれまた大幅な削減は不可避なのに、これにも手をつけないも同然の現状も、国家百年の計を誤ろうとしています。

日本の今後を真剣に考える政治家は現れるでしょうか?

日本人は太平洋戦争の終結を早めることが出来なかったように、財政問題対策も真に破綻するまでは、抜本的な対策は取れないのでしょうね。
前例がない。だからやる!  樋田廣太郎氏

講演・対談メモ

トヨタ技術会50周年記念講演会 第4回


       
講師 樋口廣太郎氏の略歴など



1926年1月25日生まれ

1949年3月 京都大学経済学部卒

1949年4月 (株)住友銀行入行

        五反田支店長、秘書役、東京業務部長、東京業務第一部長、

        業務推進部長などを歴任

1973年11月 同行 取締役

1975年12月 同行 常務取締役

1979年12月 同行 代表取締役専務取締役

1982年 9月 同行 代表取締役副頭取

1986年 1月 アサヒビール(株)顧問

1986年 3月 同社代表取締役社長



翌年、日本初の辛口ビール「スーパードライ」を大ヒットさせ、ビール業界の流れを変える。社長在任の6年間にアサヒビールは売上高3.1倍、ビール売上箱数3.6倍となり「業界第2位に躍進、シェア9.6%から現在34%。



・市場の商品を新しくするため、古いビールを回収し処分、



・最高の原料使用を促進するため、工場利益管理制度を廃止、



・お客様からのマイナス情報を収集するため、マーケットレディを大量に配置、



・情報共有化のため、全体社長朝礼を実施、など、従来のビール業界にはない革新的な経営手法を導入、活力溢れる企業体質を構築した。



1992年9月アサヒビール(株)代表取締役会長、現在に至る



<公職>



1995年 5月 経団連副会長、広報委員会委員長、金融制度委員会委員長(現職)

1989年 1月 日経連 常任理事(現職)

1994年11月 東京商工会議所 産業経済委員長(現職)

      中央連合会簡易保険加入者の会 会長(現職)

1995年 4月 財団法人 産業教育振興中央会 理事長(現職)

    7月 通産省 輸入協議会 委員(現職)

   11月 大蔵省 財政制度審議会 委員(現職)

1996年10月 大蔵省 金融制度調査会 金融機能活性化委員会 委員(現職)

1997年 5月 総務庁 公務員制度調査会 委員(現職)



<主な著書>



「知にして愚」 祥伝社

「樋口廣太郎の元気と勇気が出る仕事術」 オーエス出版社

「樋口廣太郎の起業家に原点あり」 東洋経済新聞社

「前例がない。だからやる!」実業之日本社

「樋口廣太郎語録」ソニーマガジンズ

「つきあい好きが運を開く」 日本経済新聞社



レポーターkayより



 樋口氏の講演は以前にもトヨタ社内で聞いたような記憶がありますが、その頃私はメモを取る習慣がなく、講演会では専ら居眠りしていましたので、話の内容について殆ど何も覚えていません。



 TES50周年講演は、アラコの方によるパリ・ダカールラリーの話が第1回でしたが聞きそびれました。以後2回目の安藤忠雄さん、3回目の東郷さんの講演をメモして来ました。今回の樋口さんに続いて最後の5回目の講演は、上智大学の猪口邦子さんが予定されていて、3月12日にTES総会と併せて開催されます。



 さて、今回もしっかり書き留めて、皆さんに樋口さんの経営上の秘訣をお伝えしたいと思って励みましたが、なぜかうまく行きませんでした。安藤さんの時もそうでしたが、関西人の話し方の特徴かと思われる軽妙な語り口に追随できず、しばしば話題が飛躍することに惑わされたりもして、ペンが進みませんでした。ただ聞いている分には面白いのですが、書き取るにはかなり苦労する話し手でした。



 それでメモできた範囲のみでまとめれば2ページにも満たないでしょう。多くの方には却って好都合かとも思いますが、前後の脈絡がつきませんので不本意ながらテープを聞き直して補います。



講演概要



 皆さん、こんばんは!私はあまり声が良くないのですが、人柄が良いので我慢して聞いてください。



今日は外が非常に寒い中をお越し頂いて大変有難うございます。平素は私共のスーパードライとか、三矢サイダーとか、バヤリースオレンジジュースとか、エビオスという大変安くて薬屋さんが開店するときにお金が無いとサービス品に使う薬品のようなものまでお買い求めして頂いております。それからラーメンの素の5割位はうちで造っているのではないかと思います。これは知らないうちにお使い頂いているということですが厚く御礼申し上げます。



 私は経団連で豊田会長の下でご指導を頂いております。常々トヨタさんというのは大変なものだと思っています。今日は工場を見せてもらいました。一番良いところを見せてもらうというのが私の流儀で、一番良い、一番歴史のある元町工場、元マチコウバと言うのだそうですが、拝見して本当にびっくりしました。



 昨日はベルリンオペラを聞きに行きました。会場には最新のセンチュリーが飾ってあり、ドイツのフィルハーモニーの連中やオペラ歌手が皆見に来て、非常に熱心に見ながら本当に驚いていました。しかし、日本人は一人も見に来ない。「これは海外に出したらもっと売れるんじゃないか」と思いましたね



 今日は日本経済のことも申し上げたいのですが、・・・まあ、ちょっとだけやりましょう。どうせ、あとは自慢話だけになりますから。



 不景気だからといって古い車を買っていては駄目なんです。昔から我国では個人消費が5割、民間の設備投資が2割、財政支出が多いように見えても2割、残り1割が輸出・その他となっています。バブルのあと、民間の設備投資が減ったので個人消費が6割にまでなっている。



 だから今は個人が飲んだり食ったり、旅行したり泊まったりしなければ景気は良くならない。私は仕事柄“飲んだり”を一番最初に言うようにしていますが・・。つまり景気というのは自分自身が良くして行くものです。



 政府も一生懸命やっているし、いずれ良い兆候が出てくると思います。減税はこの前の時は3兆、今度は2兆円です。その金額の違いだけでなく中身が全然違う。前は沢山取った人に出来るだけ、それぞれの比率に応じて返した。しかし全部返すわけには行かないから頭切りをするということでした。「豊田章一郎さんなら200万円迄ですよ」ということです。今度は一所帯で2万円しか返ってこない。社民党が「公平にやれ」というから、こうなってしまった。これでは戻ってきてもタンス預金になるだけで消費拡大につながらない。



 消費税についても少し話しましょうか。去年はその他も含めて9兆円も上がってしまったので不景気になる。これは統計のミスもある。例えば、スーパーの売上げについていうと、経団連の鈴木さん(セブンイレブン会長)はいつも渋い顔をしている。あそこは店舗数を6500から一年間で500も増やして7000店にした。それで売上げも利益も増えているのに、比較は古い6500店の間でやっていて「売上げが伸びていない。利益率の変化がない。消費税アップがいけない」ということで怒っている。しかし、政府の見ている数字は、7000店に増えたトータルの数字ですから「明るさが見えてきた」という発表になる。



 消費税は12年前に英国でやったまま持ってきた。日本は源泉徴収という一番楽な徴税方法で所得のある人からばかり取っていた。物を使う人から、物を買う度に取るというのが消費税です。フランス、スペイン、アメリカ、イギリスが次々に取り入れ日本に続いて台湾、韓国でも採用した。日本以外の国は15%位が普通です。日本では法人税も高く50%も取られているので、外国企業も寄りつかないということで、40%に下げることになった。



 世の中は3〜4%のインフレの時がエブリボディー・ハッピーであって、デフレは誰も経験していない。日本はそのデフレになり、デフレ・スパイラルから簡単に抜けられない。



 アメリカも財政赤字と貿易赤字の双子の赤字に苦しんだが、日本が60何%かの債券を引き受けたし、ニクソンの減税政策もあって立ち直った。このときサムエルソンという学者は「日本の自動車メーカーを見習え」ということを言い、ビッグ3が応じてカンバン方式などを見習って良くした。



 その間に円高となって日本は金利を下げてきた。そのためにハワイで土地を買ったりしたので、ハワイの知事から「いい加減にしてくれ。ここはアメリカの土地だ」と怒鳴られたりした。それで国内の土地と株を買ったのがバブルだった。



 また、ドイツの合併があった。金は安全で儲かるところへ移動する。

(東南アジアの事情についての話もあったが省く)



 いろいろやってきて、今ほど悪いときはないので、もうそろそろ良くなると思います。



 日本の総理大臣は吉田茂さん以来、歴代総理は非常によく勉強している。私は鈴木善幸さん以外の殆どの総理と付き合ってきた。政治家も二世、三世は駄目だと言うけれど、ひどいのはこの前の選挙で大体落ちたと思う。まだ少しは残っているが。



 産業界も銀行のMOF担が問題になっているが、頭取の9割がMOF担です。各行一人しかいませんから。私もMOF担をやっていた。これも急速に良くなってくると思います。いま起きているのは皆古い話ですから。



(K:そうとも言えないのでは?)



 さて、今日のテーマは『前例が無いからやる』ということですが、勿論そういうことばかりやっているわけではありません。



 最初に皆を集めて「これまで悪いことばかり続いたが、これからも続くと思うか」と聞いたら、黙っていて何も言わない。36年間、ナイアガラの滝のように下がりっ放しで36%あったシェアが9.6%まで落ちた。これ以上悪くはなりようがないと私は思っていた。それで「もっと悪くなるようなこと、例えば(アサヒビールが)人を泣かせているようなことがあってはならない。2週間を与えるから悪い材料があったら全部集めてくるように!」と全役員、部長に命じた。サッポロやサントリーに合併を申し込んでも断られた位の会社だから、最悪の場合は解散すればいいとも思っていた。



 彼等の報告は「悪い材料は余りない。泣かしているようなことはない。泣かされている方である」ということだった。



(ここで京大の受験受付が終わった後で無理に頼んで受験させてもらった話があり、「今でも恩義を感じている。それで京大の募金活動に協力して、豊田さんにも助けてもらったが全部で60億円を集めた」ということだった。そのように金集めの才があることが、次のエピソードに繋がる)



 私は住友銀行を去るときに、「アサヒビールの再建に成功しても失敗しても二度とここには戻らない。それでもう僕が死んだものと思って香典を出してほしい。僕と一緒に働いて良かったという人間は少ないかも分からんが3万円出してくれ。あんなうるさいこと言う奴はいない方がいいという人は1万5千円、何とも思わん人なら1万円でええ」ということにした。



 「その金で町の小売り屋さんからアサヒビールを買ってくれ。香典だと思って。・・香典返しはそこで買うたビールや。それは飲んでも飲まんでもええ。兎に角アサヒビールを買うてくれ」と頼んだ。そういうことで危機感を訴えたのです。



 会社の持っていた遊休地があったので、そこに8階建てのビルを造ってパチンコ屋をやることを考えた。隣にやはり8階建ての駐車場も造るということで、その資金を銀行から借りる手当もして社内で提案した。しかし、だれも賛成しない。「どうしてか」と尋ねると、「パチンコは好きだけどね」と首を傾げている。「“好きこそ物の上手なれ”というではないか」と唆しても、「ビールの方で一生懸命やります」と言う。



 実は京都の電鉄会社がやっているパチンコ屋で30億も儲けているのがあるので、そこのノウハウを学んでやろうと思ったのですが、その話をしても心を動かさないほどビールに賭ける気持ちが強いということで取り下げにした。



 その頃はCI運動が盛んだった。あれは世間に比べて足りないことがある会社
がやることです。バッジを作ったり、標語を掲げたり、派手に広告を出したりし
て、結局電通と博報堂だけが稼ぐことになる。



 私は商売仇の会社へも教えを乞いに行った。キリンビールはシェア63%、うちは9.6%。“ビール業界は一人の巨人に三人の小人(コビト)”と言われていた。サッポロは18%位のシェアを持っていましたから、小人では気の毒で中人くらいだったと思いますが・・。キリンの会長、社長に「お宅だけどうしてうまく行くのですか」と聞いたのです。社長は黙っていた。社長は経営責任があるので、「何をふざけたことを聞きに来るか。もっと取ってやる」という気持がある。ところが小西会長の方は毛穴が開いている。それで「あんたのところは原料代が高い」と教えてくれた。



 サッポロにも行って、会長から「お前さんのところのように古いビールを売っていたら売れないよ。



それと、餅は餅屋。商社を使わん手はない」といろいろ詳しく指南してくれた。



 それであちこちに声を掛けたら12社が情報を持ってきた。そして今まで如何に悪く、高いものを買っていたかが分かった。例えば、缶は共同開発しながら世界一高い値で買っていた。一個あたり3円の差と言うと「大した額でない」と感じる方がいるかも知れないが、この違いは営業成績に大変な影響がある。どこか会社では“乾いたタオルをまだ絞る”という言葉があるそうですが、うちの場合は絞って滴が落ちるのではなくて、フッと吹いただけでボタボタ落ちるほどジャブジャブだった。



 中国へ出るときも商社を使ったら予想もしないほど早く出来るようになった。まだまだ儲かるところまでは行ってないが。 商社は日本独特の、正に日本の宝だと思います。



 古いビールはどうにもならない。それに気づき思い切ってやれたのは三井物産の社長から“損切り”を学んだからです。彼は神戸支店のゴム課長のときに出世街道から外されたのに、それから挽回して経団連の副会長にまでなった。それは損切りを躊躇なく決断実行してトップの信頼を得たからです。



 出来たビールを捨てたのは、ビール業界では私が初めて。ただ、「捨てると公害になる」と言われたことは予定外だった。



 ビールは蔵出し税と言って、工場から出るときに税が掛かる。「回収して捨てるから税金を返してくれ」と税務署と掛け合ったら、署長がそのビールを飲んで「うまい」という。「いや、うまくなくなっているから捨てなければいけない」と頑張り、如何に不味いかを実証してみせて、遂に税金分だけは取り戻した。



 銀行には、出世して頭取になることを夢見て入ってくる人間も少なくないが、ビール会社の場合はビールが好きで、「ビール会社へ入れば飲めるだろう」と期待して入って来るのが8割位いる。それで当社でも時々“ビール飲み会”を社内でやっている。それは普通2時間くらい続くのだが、ある時、30分もしたら「残業の疲れがひどいから帰る」という人が続出して、直ぐに解散になってしまった。このとき出したビールは、最初の一杯だけがフレッシュなビールで、その後のは小売店から回収した古いビールだった。帰りを急ぎながら、「よそへ行って飲み直す」と言っていた者も居たくらいで、残業の疲れが早々に切り上げた原因ではなかったのです。



 こうして古いビールは自らが作って愛着のある品であっても、とても飲めたものでないことを社員一人ひとりに実感してもらい、一斉に市場からの回収作業入った。そして古いビールを捨てたことを言いまくった。「もう古いアサヒビールはありません」と言えることで営業が喜んだ。



 当時アサヒビールの労組は勢力が強かった。その役員が9時半頃になると筋向かいの店でキリンビールを買ってきて飲んだ挙げ句、門に小便を引っ掛けながら「アサヒビールの馬鹿野郎!」と叫んだりしていた。アサヒは500人の人員整理をしたことがあり、それが原因で荒れていたのだと思う。そういう連中がその後どうなったかと言うとすっかり大人しくなって、「悪いことをした」と謝りに来るようになった。



 彼等の職場に身体障害者を配置したのです。元々アサヒビールでは身障者の採用比率が高くて、国で決めている基準を遙かに上回っている。そういう人達が実によく働く。コンピュータ操作にかけては凄い能力を持っている人もいる。彼等が一生懸命やっているのを見て組合の連中も変わってしまった。『身障者は我が社の宝だ』と私は思っている。



 彼等が働いている場所に小学生の見学者を連れていくと、身動きの異常さに最初笑う子が多い。その内に反省して、謝罪の手紙と折り鶴などを送ってくるのです。



 人間は所得が上がると食べ物に多く使い、もっと上がると食事に使う比率は下がって車を買うようになる。これがエンゲルの法則です。食べ物に金を使うようになるとき、それまでより油っこいものが増える。それに合ったビールが必要になる。



 私がアサヒビールに来るまで30年間、同じコンセプトだった。ラベルを剥がすとどこのメーカーのビールかも分からなかった。多少の差があるとしたら、それは新しさの差でしかなかった。



 ところで食品は緩やかに変えるのは良いが、「変えました」と言って成功した例がない。例えばコカコーラは味を変えて、盛んに宣伝したけれど、シェアがどんどん下がって、元に戻さざるを得なくなった。



 私は競争相手を悪く言うことはしない。「キリンのラガービールは日本食に合う」と誉めている。湯豆腐や茹で豆に合うビールだと思う。



 ビールの味でコクとキレが決め手であるが、これは相矛盾する特性で、コクがあるビールはキレがない、キレがあるとコクは劣るというのが常識だった。それを打ち破り『コクがあるのに、キレがある』というキャッチフレーズで売り出したら、親戚の人間で国語審議会委員をしている男からクレームが付いた。「あの日本語はおかしいので、やめるべきだ」というのです。でも変えなかった。内容に偽りが無かったのだから。



 競争相手の会社からも散々酷評を受けた。「あれは夏のセミとキリギリスだ」とのこと。「夏が過ぎれば死んでしまう」というのです。私も、「そうかなあ。一時的なブームで終わるのだろうか」と少し心配して、ソニーの盛田さんに相談したら、「そんな話は聞き捨てにして置きなさい。ウォークマンを出したときでも、『歩行者の事故が増えて交通巡査が忙しい』とか、『耳鼻科の医者が流行っているのはあれのせいだ』と随分言われました。そう言ってけなしながら、皆イミテーション作りに励んでいたのだから」ということでした。



 案の定、すぐに他社からも似たような商品が売り出された。私は何度も言うように他人の悪口は言わない主義ですが、缶の色からデザインまで余りにそっくりだったから提訴した。これがドライ戦争と言われたものです。



 スーパードライは独り勝ちしただけでなく、ビール業界のパイを2倍に拡げたということで全体に貢献できた。しかし利益は増えなかった。それは広告費を10倍も使ったからです。アサヒが頑張っても本当に潤ったのは電通、博報堂だったということです。



 アメリカは南と北で全然違う。同じものでは商売ができない。その点、日本は全国どこも同じでレベルが高い。マハティールさんも「日本が羨ましい」と言うのは、1億2000万人の市場があり、その人達が絶えず良いものを求めている。向上心があるということです。



 ビールには忘れてならない三つの原則がある。瓶が茶色であるのはちゃんと理由がる。それは紫外線に弱いので遮っているのです。もし直射日光に2時間も当てたら、そのビールはとても飲めたものではない。二つ目は振動・衝撃です。そして三つ目が保管期間で3カ月以上経ったものは駄目です。



 自動車会社はフルラインの販売店を持っていることが羨ましい。ビールは各社の商品が入り乱れて、どこに並べられるか分からない。



 季節商品は残ったら安売りに繋がるので出さないようにしている。



 スーパードライの販売目標は国内に限定しなかった。世界でハイネケンを競争相手と想定し、バドワイザー、ブラマーに続き、いまスーパードライが3番目です。ブラマーは少し動きが怪しいので2位も手の届くところに迫っている。



 どこから売り始めるかも作戦の一つだった。まず親会社旭化成のある宮崎県に重点を置いたら売れた。そして九州内の各県でも1位を勝ち取っていった。大阪では区毎に目標を決めて進めた。東北では県によって味覚の好みに差がある。(青森、秋田、岩手の特徴を解説)



 年齢別では50代、60代は初めから捨てた。若い人と女の子に飲んでもらいやすいようにした。5月の学園祭で飲んでもらうと、夏休みに郷里に帰って、友達と飲むとき、「とりあえず」と言えば、ビールのことです。“とりあえず”という銘柄のビールを出そうかと真剣に考えた位ですから。そのときに「いま東京ではスーパードライだよ」とひとこと言ってくれるだけで、田舎の若者もスーパードライを飲まないと取り残されたような気分になってしまう。



 「問屋が売る気にならないと売れない」という話をよく聞かされたけれど、消費者の気持が先でなければいけない。それで自分達が開発した商品に如何に自信があっても「売れる筈だ」と決めつけることはやめた。アサヒビールといえば、日の出マークが有名ですが、飲み比べをしてもらった結果では、そのマーク付きが一番まずいというので、ラベルから消すことにした。最初は白い日の出として残し、少しずつ小さくして行って大阪向けは3年掛かりで消した。



 「酒には水が良くなければならない」というし、ビールだって水の善し悪しが影響することは当然だけれど、良質な水で有名な土地に工場を建てても旨いビールが出来るとは限らない。淀川の河口に入る直前の水が一番合うというように、実際に試してみないと分からないことが多い。だから、「売れる筈」という気持が一番悪いと謙虚に考える。我々は舞台の照明係に過ぎない。シナリオを書くのはお客様です。



 日本人は職人と商人(アキンド)が離れすぎている。職人+商人の職商人が原点でなければならない。



 琵琶湖はなぜ凄いかというと、汚染度が低い。周辺人口は結構多い。地図で見たら意外と標高が低くて、3000以上の河川が流れ込んでいる。これは頭を低くしていると皆が教えてくれることと似ていると思います。竹生島の近くには湧水もある。これは自助努力であると見ます。



 琵琶湖から流れ出るのは石山寺や瀬田唐橋がある宇治川の一本のみ。これは涸れたことがない。宇治川と京都盆地は100mの落差があるので安く発電が出来る。京都に日本で初めての市電が走ったのも偶然ではない。



 世の中は声が大きくて、ニコニコしていて元気だったら、大体うまく行っている。私の出た小学校の卒業生には一部上場企業の社長になったのが8人居て、一人を除いて会長になっている。彼等に共通していることは子供の時から友達が多く、ちょっと知性があることです。



 ノーベル賞受賞の福井さんが先程亡くなられましたが、あの方と新幹線のグリーン車で近くの席に座ったことがある。先生は何も持っていない。目をパチパチするのが癖らしく、いつ見てもパチパチパチパチやっておられる。私は空気枕を膨らませて、使っていたのですが、横浜を過ぎたところで先生が私に「ちょっと話してもいいですか」と言われるので、「どうぞ、どうぞ」と答えると、「その首に付けているものは何ですか。京都で乗ったときから『何だろう?』と考え続けて来たのですが、どうにも判らないので教えてもらいたい」ということだった。「そんなことなら何故もっと早く聞いてくれはらへんの」と言うと、「考えないで聞いたら、私の進歩が止まる」と仰った。「東京へ行くのも、宮城の周りを3回まわって考えるためです。考えないと人間は駄目だ」ということでした。



 今日、ここの司会者の方の最初の挨拶が非常に良かった。「今晩は!」とはっきり吐く息で話したのです。高橋圭三さんとか、有名なアナウンサーに共通なことは吐く息で話すことです。2月7日の22時からBSで“気”についての放送があるので、ぜひご覧いただきたい。



 人でも組織でも挨拶がきちっと出来ている時がよい。仕事はいつまでも進歩する。そんなに悪い時代は続かない。景気ももう良くなると思います。元気を出してやって行きましょう。ビールの方も宜しくお願いします。

                                                
                                   完



kayより



 昨年夏サンロク会の皆様の年会費でMDステレオ録再機を購入させて戴きました。その“多機能さ”が禍して収録ミスが多いので、最近録再オートリバース機構付きのカセットレコーダーを買い足しました。今回初めてそれで録音したのですが、内蔵のフラットマイクが広い会場での収録向きでないため、非常に聞き取りが困難でした。



 テープで聞き直してみると、2、3分おきに会場が爆笑で包まれるほど沸き上がるのですが、当然その時はほとぼりが冷めるまで全く聞き取れなくなります。結局、会場で取った途切れ途切れのメモに勝手な想像と脚色を加えて、以上の文章をまとめました。



 ・・ということで、今回に限らないのですが、一番良い話は欠落していると思ってください。講演者本人が見たら「こんな話はした覚えがない」というクレームの付く部分もあるでしょう。



 正真正銘の樋口廣太郎氏の話でないと納得できない方はTES事務局にビデオテープの借用を申し入れてください。             Kay       
           



追伸:ビデオテープはないのだそうです。不正確なメモで、諦めてください。
日本の産業界を見くびるな  唐津 一 氏
渡部昇一の新世紀歓談 ゲスト:唐津一氏 1998.4.19 テレビ愛知



                             

                         



W:唐津さんは先月末までヨーロッパ連合の主要四カ国をお巡りになって来ら
れたそうです。いろいろ珍しいお土産話を聞かせていただきたいのですが。



K:今度はJETRO(Japan External Trade Organization;日本貿易振興会)に頼まれましてね、「なぜ、私が行くのだ」と聞いたら、「向こうのJETROの人達が大分自信を失っている」と、



W:日本からの話が悪いことばかりですからね。



K:それで「日本人を相手に話すのか」と聞いたら、「そうじゃない。向こうの連中だ」って言うんですね。およそ200人の人が来てくれましてね、四ヵ所廻ったお陰で、面白いことが一杯ありました。具体的に言いますと、今度廻ったのは最初イタリーへ行ってミラノ、ドイツのデュッセルドルフ、それからイギリス、ロンドンへ行って、パリへ行って帰った。そうしたら大陸側は皆、“アングロ・アメリカン”という言葉を盛んに使うんですね。



W:なるほど。イギリスとアメリカということですな。



K:何かというと、良い意味ではないのです。「あの連中のやっていることには付いて行けない」ということで、“アングロ・アメリカン”という。それで「ヨーロッパにはヨーロッパの良いやり方がある」という。話を聞いてみると、EUの通貨統合、あれにイギリスは外れましたね。あの理由が非常に良く分かりました。



W:ふーん。それで向こうの人達は“日本経済崩壊”のような話を聞くのだろうと思ったところが、唐津さんの話はそうでないですよね。



K:実はその通りです。というのは日本の経済の話はほとんど経済の専門家;エコノミストの話が伝わっている。ところがエコノミストという方々、こう言っては悪いんですが、お付き合いしているのが大体、金融・証券ですよね。これは駄目ですよ。



W:今はね。



K:ところが製造業は結構元気が良い。私はいつも言うのですが、金融・証券というのは規模が大体25兆円です。GDPが500兆円ですから、5%に過ぎない。ところが製造業は125兆円なんです。25%ある。で、「5%がガタだから、残り25%もガタか」と言われると、これは迷惑ですよ。そういう話をすると皆「なるほどね!」となる。



W:例えば具体的にどういうところが目立って日本の製造業の良いところです
か。



K:それは偶然ですけど、パリへ行きましたら、着いた日に日本から新聞が来まして、それを見たら鉄鋼5社の決算が出ていた。私は嬉しくなりまして、パリでその話をしました。5社のうち3社は非常に決算が良い。今年の3月ですよ。それで最高が新日鉄で、利益が1千億だと言うんです。しかも、研究開発費を560億円使っているというのです。この話をしたらフランスの連中、皆ビックリしていました。



W:一社で560億という研究費というのは凄いですね。



K:1年で使うのですからね。「365日で割っても、1日いくらだ」と話しました。



W:鉄鋼業というのは、「アメリカの鉄鋼業と言えども、日本の子会社みたいなものだ」という話を聞いたことがあります。技術的にね。



K:おっしゃる通りです。ガタガタになってしまいましてね、日本の会社がサポートしてまあ何とかやっている。



W:凄いですね。



K:そうですね。阪神大震災がありましたね。あのときに世界中の自動車会社
が泡食ったという有名な話がある。これは自動車のエンジンの中にバルブという部品がありまして、それを動かすスプリングがある。そのバルブスプリングが神戸製鋼所、ここで世界の7割を造っている。これが来なくなったら、エンジンが出来ないのですよ。こういう話というのは非常に地味だから、地震でもなければ分からない。そう度々地震があっては困りますけどね。その話をしたら、向こうの人も知っていました。



W:そういう例が日本では方々にあるでしょう。



K:そうです。そういう例を写真入りで持っていって話したのですが、そうすると
不況の話がどっかへ飛んでいってしまう。要するに技術をお互いにどう相互依存でやっていくか、という話になってしまうのですね。



W:例えば我々の常識では、イタリアというのは日本車を年間2千台しか入れないとか、物凄く日本を差別する国というイメージがありますね。ところがまた違った面があるのですね。



K:おっしゃる通りで、私、前にアメリカの雑誌でフィアットが新しい工場を建てて立ち直ったという記事を読んだことがあります。ところがよく聞いてみたら、何のことはない。日本の小松製作所、KOMATSUという会社があるでしょう。そこが
ボデーをプレスするライン全てをフル・ターン・キーで入れた。



W:それは全部そっくりという意味ですね。



K:いや、機械を全部ではなくて、人間の訓練まで。それで後でKOMATSUの人に聞いたら、粟津に1年くらい連れてきて訓練したのだそうです。



W:何人くらいですか。



K:300人とか言っておりましたね。



W:イタリア人の工員300人をそっくり連れてきて、KOMATSUから輸出する機
械に慣れさせるために訓練したのですか。



K:そうです。何のことはない、向こうの工場の中にミニ・ジャパンが出来たということです。



W:そうですね。簡単に言えば。



K:そうすれば日本並みに出来ますよね。



W:外から見れば、完全にイタリアの自動車だけれど、中身はミニ・ジャパンみたいなものですね。



K:それでKOMATSUの人が笑ってました。私、機械の図面を見せてもらいましたが、非常に良く出来ている。ところが工場が動き出したら、外部の人には全部(KOMATSUの人も)立ち入り禁止だって。それで笑っていました。要するにノウハウが漏れるのが嫌だってことです。やっぱり、ヨーロッパは自動車会社同士競争が厳しいですから。



W:それは日本が教えたわけですよね。

それから、これは前からその傾向が出ていましたけれど、造船がまた素敵に宜しいようですね。



K:そうです。造船は3年先まで24時間フル操業です。昼だけやったんではとても間に合いませんから。これはこの前、ソ連(ロシア)のタンカーがえらいことをやりましたね。油が漏れて。それもあったのですが、いまタンカーは二重底;これをダブルハブと言うのですけれど、それに切り替えるということで新しい注文がどっと来ているのです。



W:そうですね。他で造ってないですからね。



K:そうなんです。日本の造船所は皆ダブルハブをやっているのですが、会社によって全部造り方が違うのです。それぞれ固有の技術を持って、皆パテントで押さえている。なかなか他所は手が出せない。



W:それで働く工員は足りているのですか。



K:それは足りないですよ。そいうわけでして、造船は忙しいですね。この前、長崎にも行きましたし、岡山の玉野にも行きました。どちらもフル稼動だと言っていました。



W:それから去年、京都で地球を守る、地球に優しいような環境の世界大会が最初にありましたね。あれをなぜ日本で第一回の世界会議が開かれたかというと、日本がダントツに地球の汚染が少ないからだそうですね。



K:面白いですね。日本という国は「あれ駄目だよ」って言ったら、わーとやる方なんです。昔、公害が酷かった時がありました。ところが、あっという間に良くしてしまった。現在もああいう事がありましたら、最近私、日立造船へ行ったのですが、そこの売り上げの3割がゴミ焼却炉だって言うのです。「どうしてそんなものをやったの」と聞いたら、



昔の船は湯を沸かしてタービンで走っていたのですが、ディーゼルエンジンに替わってしまった。するとボイラーを造っていた連中が暇になってしまった。それでゴミ焼却炉をやりまして、しかもそれはダイオキシン対策が完全に出来ていて、そこから出てくる熱で電力を起こす。要するに発電所です。



W:発電までやるんですね。一石二鳥で。



K:そうそう。それで1セットが大体100億だって。



W:凄い商品ですね。



K:先ほど言ったタンカーは一隻が60億か70億です。だからタンカー一隻受注するより、ゴミ焼却炉の方が良いんだそうです。



W:なるほど。それに地球のためにも良い。それでまた、最近小さい焼却炉が悪いという話が出ていますが、その方の改善も進んでいるのでしょう。



K:そうです。僕が感心するのは、小さい焼却炉でもダイオキシンが出ないのがもう出始めましたね。



W:ああ、日本人らしいですね。



K:本当に手が早いですよ。それから微生物を使ってゴミを分解して肥料にするとか、そういう後始末産業というか、これが今大変な高度成長です。



W:輸出の方はどうですか。



K:やはり輸出もやっています。大きな発電所は海外に随分出しています。



W:そうでしょうね。アメリカは随分悪いし、中国はさらに悪いし、ヨーロッパも悪かったですからね。とくに東欧圏は酷かったですから。



K:まあ需要は無限にありますよ。向こうが公害を出してくれるほど、日本は輸出が出来るわけです。



W:そうしますと日本の工業は世界でこのようにユニークさを持っているわけですが、それがいつ頃からそうなったかというと、30年前の自由化、今で言うところの貿易ビッグバンですね。あの辺りからですかね。



K:仰っしゃる通りで、私はあの頃はメーカーに居まして、あの自由化では大変だったですよ。散々苦労したら、あのオイルショックが来ましてね、それが何とかなったら今度はプラザ合意で円がぼーんと上がるでしょう。だから日本の製造業は踏んだり蹴ったりで、ずっと堪え忍んできた。



W:それでどんどんどんどん強くなってきた。



K:それである時、経団連会館で日本側一人、アメリカ側一人で討論会をやっ
た。その時に貿易摩擦がテーマとして出ました。私の担当したのが貿易摩擦でした。アメリカ側の人が「日本の貿易黒字が進んだので円を80円まで持っていった。しかし貿易黒字はちっとも減らなかった」と言うんです。それで私は「当たり前だ。我々は80円対策ということで、死ぬ思いでやった。それがどうにか80円でもやれるようになった途端に120円となったのだから」。



W:物凄く儲かりますね。1万ドル輸出して80万円入るところが、120万円入るわけですね。



K:そうですよ。ところがそういうことは皆黙っているのです。言うこと無いですから。



W:それで今年の貿易収支はおそらく製造業中心として10兆を超えますよね。アメリカの方は15兆ほどの赤字ですか。すると25兆から30兆近い格差が毎年毎年、日本とアメリカの間で開いていって、その黒字国の日本がオタオタして、アメリカの方が元気が良いというのは大変皮肉な話ですな。



K:何かおかしいじゃないですか。



W:私はいま少し話が出ましたけれど、日本の製造業は貿易のビッグバン以
来、試練を浴びてどんどん強くなった。ところが金融を中心とする業界は護送船団方式でがっちりと護られて来たので、物凄くひ弱になった。それだけの違いではないでしょうかね。



K:まあそうだと思います。それとまだ不思議なのは、この前春闘が終わりましたね。毎年、春闘が終わると各社の賃金ベースだとか、賃上げ率が全部出るでしょう。あの中で銀行のリストが出るのを見たことがない。



W:それはおそらく、大蔵省の指導があったのでしょうね。



K:何か知りませんけれど、今年こそ出るのではないかと思いましたが、やはり出ませんでした。



W:それは本当のビッグバンになっていないんですな。



K:そうですね。だから私、2月くらいに皮肉を雑誌に書いたんです。「あの業界は製造業より賃金水準が2割から3割高い。しかし、もう持ちこたえられないから、下げざるを得ないだろう」ということを書いたたら、本当に下げはじめたみたいですね。



W:まあ重役の方は下がったというのが時々出ますね。



K:どうか分からないけど、春闘が終わって今でしょう。(銀行員が平均幾ら給料を貰っているとか、何%昇給するとかという数字は)出ていませんよ。このテレビ見ている方、探してご覧なさいよ。あの業界はまだちょっと違いますね。



W:私はビッグバンをやった製造業の強さとやらなかった金融業の弱さ、これを比べてみますと、どうもビッグバンをやるということは、「弱い企業は滅びなさい。強い企業は栄えなさい」ということですね。それが巧く働いて製造業の方は無類の強さになった。今度、金融業が直面するのは30年前の製造業だと思えばいいのですね。



K:そうです。僕は、日本人というのは結構教育の水準も高いですし、(金融業界でも)いざとなればやると思いますよ。



W:おそらくお役所の規制がある内は進歩しないですね。



K:そうです。言われた通りにやってればいいのですから。



W:潰れっこないところが司令するのだから、発想の元は潰れませんものね。



K:ところで、世の中「不景気、不景気」と皆さん仰しゃるのですが、結構売れているものがあるのですね。私がビックリしたのは、FM東京というFMの放送局がある。丁度今日、そこへ行っていたのですが、“見えるラジオ”というのがある。それはこんな小さなラジオですが、窓があって文字が出るのです。FMの電波にいろんな信号を載せて天気予報とかニュースを出すことが出来ます。このラジオが200万台売れたというのです。「何で売れたんだ」と言うんですが、最初はニュースとかそういうものをやっていて余り売れなかった。そこでいろいろアイデアを出して、最後にタレントが今どこを歩いているかという情報を出し始めたら、ぶわーと売れて、いま200万台になったと言うんです。



W:そういうものは妙なことで売れるもんですね。



K:そうですね。若い人は“見えラジ”って言う。見えるラジオですからね。これがブームになっている。



W:テレビでも電話でも発明する人は非常に真面目な意図でやるんだけれど、結局娯楽が突破口になって広がるんですね。



K:ポケベル、ポケットベルもそうでしたね。皆が何処に居るか連絡が直ぐ取れる。それで売れ出したんですね。



W:なるほどね。楽しくなければ駄目だってことですね。

それでその他、いろんな面でこれから伸びそうだというものにはどんなものがありますか。



K:先ほどの環境。これは非常に真面目一本槍のようですが、今仰った楽しむ機械が伸びていますね。例えばMD、ミニディスクというやつ、これがやはり二百何十万台売れたんですね。それからデジタル・スチル・カメラというフィルムのないカメラ。



W:そのカメラは革命ですね。カメラ革命ですね。



K:あれは何で売れたかというと、フィルムが無くて撮ったら直ぐに見られるのです。だから変な顔に写ってたら、消してすぐその場でまた撮り直せるのです。だから若い女性には持って来いです。いま一番お金を持って使っているのは、若い女性とお年寄りです。その辺を狙った商品はよく出ています。



W:なるほど。唐津さんは日本の大学で言えば春休みにヨーロッパにいらっしゃったわけですから、若い日本人女性の旅行者が随分多かったでしょう。



K:いやビックリしました。最初ミラノに飛んだのですが、ミラノのドームという大きな寺院があるでしょう。あのそばに宿を取りましてね。そこからグッチといブランドの店が近いのです。そこまでわーと日本の女性が並んでいる。



W:ミラノまで行って並んでいるのですか。



K:ツアーコンダクターの女性が居たので掴まえて、「このツアー、幾らくらい?」って聞いたら「10万円です」と言うんですね。それでミラノまで往復できるのです。それで土産を一生懸命買っているから、「あれどれくらい買っているの?」と聞いたら、「大体、一人30万円」だって。これには驚いちゃった。



W:こうなるとまあ並行輸入ですね。



K:ほんと。だから僕はこう言って笑ったんです。「成田から出る飛行機は旅客
機だけど、帰る飛行機は貨物機だ!」。



W:ワッハッハー。これはいい言い方ですね。



K:そんな調子で、とくにミラノはそういうことで楽しみました。見ているのが楽しい。見物人を見物しているわけです。



W:それから今、楽しい、有望なマーケットの一つとしてお年寄りと言われましたが、お年寄りでいまちょっとブレーキが掛かっているのは、金利が物凄く低いでしょう。だから年金と貯金した利子で、つまり年金で生活して貯金の利子で遊ぼうとしたお年寄りたちにブレーキが掛かっているのが残念ですね。



K:そうですね。だから、ただよく言われますように、個人はお金持ちなんですね。貯蓄が1200兆円といいます。それでよく見ていなければならないのは、今の不況の最大の原因は個人消費が冷えたからです。個人消費が大体260兆超ちょっとですかね。500兆円の経済で260兆といえば6割くらい。これが冷えるとえらいことになります。



W:それはそうですね。他のものと比べると、ダントツに大きいですからね。



K:大きいですよ。今度政府が不況対策でなんぼか出すと言っていましたがあれはGDPの12%ですよ。個人は60%。だから笑っちゃいました。一昨年でしたか、不況対策として政府が17兆円出したと言ったんです。その年のパチンコが30兆円ですよ。個人には、とても適わないのだから。



W:唐津さんは、個人消費を元気にさせるためにはどういう手をうったらいいと考えられるでしょう。



K:そうですな、やはり個人は気分ですよ。だから今も消費税をどうとか言われているけれど、政府から個人に元気を出させるような政策が出たのを聞いたことがない。公共投資がどうとか、インフラがどうとか、そんな話ばかりです。だから橋本さんは個人に向かって、「大丈夫ですよ。我々はそのためにこういう政策をやります」と一発ぶってもらいたいですね。そうすれば気分が変わりますよ。



W:「老後もそれほど心配ありませんから、いまあるお金はどんどんお使い下さい」と言うとかね。実際は使えるような金利にしなければいかんのですが。



K:でもね、アメリカはご承知のように年金問題は非常に巧くやっていて日本だけが巧くないですね。やはり年金のルールも変える必要があるでしょうね。



W:なるほど。そうすると、要するに今までやったのは、『不景気だったら公共投資』という素朴ケインズ論ですな、これは。



K:きわめて単純でね、そんなもんでないのですよ。



W:高橋是清の頃ならまだよかったのですが、いまは違ってきていますからね。不景気だったら、『個人消費をどうするか』というアイデアのある人を首相は自分の周囲において耳を傾けるべきなんでしょうね。



K:だから僕は政府の審議会のメンバーを入れ替えて、商売の名人を入れなければ駄目だと思います。そういう人は日本に一杯居るのですから。



W:政府の審議会というのは、これまた旧態依然なんですね。バブルを潰して
不景気だと言って騒いでいるのだから、「バブルを潰した時の税制をなぜ変えないのですか」と言ったら、ようやく分かったのは、バブル潰しのときの税金を
れた人が同じ税調のメンバーになっているんですから。



K:懲りないですな。



W:懲りない面々ですな。それは戦争に喩えるなら、負けた作戦を立てた人をいつまでも使い続けるようなものですからね。



K:仰しゃる通りです。僕は日本で是非やって頂きたいのは、商売のベテランが居るわけですよ。そういう人を橋本さんのスタッフにして、商売の話ばかり聞かせたら良いんです。そうすれば、あの人だって頭は悪くないのだから、必ず変わると思います。



W:いま商売の名人を集めた首相顧問団というのは無いですね。



K:あまり聞いたこと無いですな。却ってそういうのは邪魔だって思うのかも知れない。嫌なことばかり言いますからね。



W:そうすると、商売の名人というのは必ずしも学歴はないし、うんと大企業
なくても良いですよね。



K:そうそう。むしろ中小企業に素晴らしい人が多いですね。



W:中小企業の方は、常に潰れるということを眼前においてやっていますから、頭の使い方とか、対応の速さとか、これは学ぶべきことが首相にも多いのではないかと思いますね。



K:四国に女性の下着の通信販売で日本一になった会社があります。「なぜそうなったの?」と聞いたら、誰でも「あそこはサイズが豊富だ」と言うのです。大体の女性は標準サイズで間に合うのですが、ときどき不思議な体型の人が居て注文しても、ちゃんとそれが来る。これが通信販売だから出来る。注文が来てから作っても間に合うのだから。うまいことを考えたなと思いました。それで日本のトップですよ。



W:商売というのは、誰が教えるというものではなくて、才能が非常に必要ですね。しかも、これは学問的才能とか政治的才能とはまた違う才能ですね。商業の才能を活かすような政策をしなければいけないですね。



K:だからそういう才能のある方が大いに働けるような、税制にしても何にして
も、枠組みを造ってあげてほしいですね。



W:それで中小企業の方が、「自分が死んだらどうするか」というような相続税
ばかり心配しないで、仕事の方にもっとエネルギーが行くような、そういう税制も必要ですね。



K:そうですね。私はそっちの方、つまり経済を活性化している人達を大事にする政策、これをやってもらいたい。



W:そうです、そうです。ぶら下がったり何かするような人よりは、経済を活性化する人、支えている人ですね。

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渡部さんの最後の発言で“ぶら下がったり何かするような人”とは“公共投資を当てにする業界人”“公的資金の交付を受けた銀行”“地方交付税の申請に血道を上げる自治体”などを言うのでしょう。



政治家は次の選挙で自分に投票をしてくれる団体の機嫌を取ることが何よりも優先ですから、如何に素晴らしい提言を受けても「それをやるなら当選させてやる」という票の裏付けがなければ本気になれないのではないかと思います。



いずれにしても、「国の方向をリードすべき首相の首が県知事、市町村長より短い任期しか保証されないという政治システムを改訂しなくては、大局を見据えた政策運営はできない」と私は考えます。皆さんは如何お感じになりますか。



        1998/4/24 kay

この番組がなくなって久しい。悪貨が良貨を駆逐するように、こういうよい番組
は低俗番組に駆逐されていく。それが残念でならない。
一度しかない人生をとことん楽しむために
「不良老人のすすめ」 大石正路さん講演
2004年03月25日

23日の日記欄にインターネット検索して調べた大石正路さん関係のいろんなことを載せておいたことをある人に伝えたら、それを見てくれたと思えないような次のメールが帰ってきてしまいました。

「貴兄の面白かったという「不良老人のすすめ」の内容はどんな話であったのか、お時間の取れる時で結構ですので、是非教えて下さい。題からして大変面白そうです。
では楽しみにしております」

そこで大急ぎで講演会当日のメモ書きから冒頭部分中心に少しまとめてみました。

一度しかない人生をとことん楽しむために
「不良老人のすすめ」 大石正路さん講演

昨年10月に刊行された本と同じ題名の講演がトヨタ年金基金の主催で開かれました。講師の大石さんは、冒頭「ちょっと歌を…」と言って、石川啄木の「一握の砂」の中の一節を朗々と歌われました。77歳のときにリサイタルを開き日頃の声楽練習の成果を披露して、大変好評を博したのだそうです。そのとき招かれなかった人からの苦情に応えて、80歳になったらもっと盛大に行うということでした。

>砂山の砂に腹這ひ
>初恋の
>いたみを遠くおもひ出づる日

講演は前刷りに掲載されている25のコラム集をすごい速さで拾い読みしながらの話しぶりでしたので、とてもフォローし切れませんでした。おおよそこんな調子の内容だったという雰囲気だけでもお伝えしたいと思います。お互いに関連のない話題が次々に飛び出してきますので、一段落ごとに頭を切り替えてお読みください。

<講演要旨>

キム・ノバクが「時の貴婦人」という映画の中で、「相手が変われば、常に初恋だわ」と言っているが、これが私の基本です。それが分からないと私がお薦めする“不良老人”にはなれません。

我々高齢者が若者たちに代わって金を使わないと、この不況は克服できない。私たちが無駄遣いしなければ日本経済は崩壊するというのが私の持論です。

「あの人はいい人だった」と言われる人は概して早く死んでいきます。一方、昔から「憎まれっ子 世にはばかる」ということわざがあります。私は「はばかる」」という意味がよく分かりませんでしたが、辞書によると「はびこる」という意味だそうです。「あのジジイまだくたばらないのか!」「あのババアまだ生きとるのか!」といわれるような不良老人は長生きです。つまり早く死にたかったらよい人になってください。私は人になんと言われようと長生きのほうを選びます。しかし、悪い人ならなんでもよいと言うものではありません。痴漢業というのが若い女性の中にいて、混んだ車内でちょっとでも体に触ろうものなら、「痴漢!痴漢!」と騒ぎたて、年金から毎月10万円払わせるという輩がいるので注意してくださいよ。

私は昨年9月まで静岡県清水市の清見潟大学塾の塾長をしていました。これは昭和60年に12講座で発足した年寄りたちの学習の場です。それが今では220講座に増えて3,300人が参加しています。講師は私のような教えることを生きがいとしている、よく言えば積極性がある、別の見方からすればデシャバリが幅を利かしています。デシャバリ、目立つこと、これは長生きの秘訣です。趣味でやっていることも自分だけの楽しみに終わらないで、人に教えるのがいいのです。私自身は古事記・日本書紀を長年研究してきたので、その講座を持っています。豊田市の高橋公民館に3年前呼んでいただいて話したこともあります。私の教え子の中には講義を聞くことよりも、年に一回歴史にちなんだ土地に旅行するのが楽しみだといって落第し続けている人も少なくありません。

定年は終着駅ではありません。ローカル線の始発駅なんです。定年前はサムライの世界、義理人情に縛られた人生です。定年になって初めて本当の、自分自身のための人生が始まります。4000年前のピラミッドに「いまどきの若い者は・・・」という落書きがあったということですが、私は「いまどきの年寄りは・・・」と呆れさせることが喜びの一つです。例えば、先日24歳の女性二人と一緒にタクシーで史跡めぐりをしていたとき、タクシーの運転手に「お孫さんと一緒に旅ができてよい身分ですね」と言われたので、「孫じゃいないぞ。ガールフレンドだ」と言い返してやったら、言われましたね。「いまどきの年寄りは・・・」って。駄馬も老いればキリンになる世の中です。半身不随であろうと、寝たきりになろうと、生きてさえいれば2ヶ月ごとに年金がもらえる。誰になんと言われようと長生きしなけりゃ〜ね。

死語というのは昔使われたけれど、今では使う人がいなくなった言葉です。ところで、老人語というのがあって、「死んではいないが使われていない言葉」という説明がある辞書にありました。老人の代表としてこの説明には納得できなくて出版社に文句を言ってやりました。もっとおかしな言葉があります。「主人が生前お世話になりまして・・・」というのは、死前でなければ意味が通りません。生存中とか。存命中という言うべきでしょう。「老化」は自分だけに不自由が及ぶ段階の体の状態、それが周りの人にまで不自由をもたらすようになると「老害」になります。老化が老害に進行するのは時間の問題だけれど、その可能性はほぼ100%に近い。そして老化か老害かの判定が自分で出来なくなったときから始まるから始末が悪い。

28歳を過ぎると脳細胞は毎日10万個ずつ死滅していくそうです。70歳までに15億個も失うことになる。しかし、まだ全体の細胞数から見たら取るに足らない数ですからそんなに心配することはありません。それより気をつけたいのは、得意なところから死滅が始まるという点です。頭の良かった人は早くボケるし、美人は早くふける。若いとき勉強した人も早くボケる。定年後に勉強するとボケないから、今こそ初めてのことに挑戦して勉強しましょう。

自分から老け込まないこと。おしゃれ心を失ってはいけない。外出しなくてもヒゲソリ、カミソリを欠かさず、常に背筋を伸ばすようにしていたい。とくに恋心を失ってはだめ。感動する心。唾液が出なくなると味が分からなくなる。足を一直線状に歩く。明日でも良いことは今日はやらない。今日やってしまうと明日にすることがなくなって、生きる意欲がひ弱になります。

目が外に向かって付いているのは、自分を見つめるためではない。他人を見分けるためだから、自分のことは棚に上げてやたらと他人の批判をする。それが悪いというのではない。それが目の役割であるから仕方ない。人間の目は眼前に立つ人間が敵か見方か、ただそれだけを判別するためにある。目と同様に口も外に向かって付いている。一方的に自分の言いたいことを喋るためです。「雄弁は銀、沈黙は金」など糞食らえ、お喋りはダイヤモンドです。自分の悪口は他人が言ってくれる。心配することはない。とは言うものの、漢字の「言」という字には深い意味合いがあります。「口」の上に「二」があって、その上にナベブタが付いている。つまり口から二言しゃべったらそこで一旦口に蓋をかぶせて反省してみなさいという古人の教えが秘められているのです。「女」に「波」を重ねて、「婆」とか、「耳」をそばだてて聞こえにくくなった聴力を補う姿を髣髴とさせるような「爺」など、漢字には単なる表意文字ではない深みがありますね。
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以下、前刷りと著書の見出しから代表的なものを列記して内容は読み手の想像にお任せします。著書には74のタイトルの文章が各2ページずつ読みやすく書かれています。これは清見潟大学塾の機関紙に載せていたコラムを加筆修正して書籍にしたもののようです。

夫婦喧嘩は老化防止の妙薬、地獄が一番面白い、世の中 面白くてボケてなどいられない、女と男 どっちが得か、浦島太郎は拉致第一号、高齢者 お国のために死んでたまるか、徴兵検査は65歳から、人生は舞台 馬の足で終わるな、ウソをつくのもボケ防止、不良老人とは何食わぬ顔の出来る人だ、二人一緒に仲良くボケろ、君子豹変は悪口 豹変しないと身が持たぬ、不良老人の会話術、女の不倫はなぜ文化なのか、遠くの他人より近くの親戚、常識とは一種の生活習慣病である、血が水より濃い人は健康にご注意を、最も巧みな話術とは いかにして黙るかだ、幸せな日本人の一つだけの不幸、母の遺言「ガンを治す治す医者を探せ」

如何ですか。興味があれば、一冊お買い求めください。税別1000円です。

母の遺言「ガンを治す治す医者を探せ」については、大石さんが一番話したかった内容と思われますので追記します。

大石さんの母親が33年前、乳ガンの再発で亡くなる直前、「どうしてガンは治らないの」と嘆く母に、「世界中どこを探してもガンを治す療法はないんだよ」と痛む背中をさすりながら「その代わり、お母さんと同じ歳になったら僕もガンで死んで傍に行って背中をさすってやるからな」と言ってやった。母は突然怒り出し、「馬鹿なことを言うもんじゃない。どこに息子がガンで死ぬのを待つ親にいるものか。10年たったら必ず日本のどこかにガンを治してくれる医者が出てくるはずだから、その人を探して一人でも多くの人を治してあげておくれ。それが私への親孝行だと思って」と言いました。

以後、新聞・雑誌等でガン治療法の記事が載ると訪ねまわり,ちょうど10年目に免疫治療法の開発者 佐藤一英博士に巡り合いました。正式には「免疫監視療法」というこの療法で多くの人をガンから救うことが出来るようになり、私は佐藤免疫療法友の会「一英会」の会長を務めています。初期ガンであればほぼ100%の治癒が可能な療法ですが、末期ガンで他の病院で見放されてから駆けつける患者が多い状況のため平均すると30%台の効果しか上げられていません。

・・・ということでした。詳しくは「一英会」のホームページをご覧下さい。
http://www2.ocn.ne.jp/~ichiei/index.html
兜カ芸社「不良老人のすすめ」 と
   著者 大石正路氏のこといろいろ
トヨタ年金基金の主催で行われた講演会の様子をリクエストのあった方に届けると100名ほどにメールしたら、予想外に希望者が少なくて書く意欲をなくしてしまった。そこで大石さんが昨年9月まで塾長を務められていた清見潟大学塾のことや著書、それに新聞社が本人と対談したレポートなどをインターネット検索して紹介するにとどめる。どなたからか良い質問などいただけた場合は私自身の感想を書き加えたいと思っている。
                  

名称 清見潟(きよみがた)大学塾
 
連絡先担当者 〒424-0836
静岡県清水市桜が丘町7-1 清水市 中央公民館内
塾長 大石 正路
TEL0543-54-1321(中央公民館)51-1664(事務室・FAX兼)
(目的)
生涯学習とは、市民が健康で学びたいという意欲のある限り、「学べる場所」が提供されて初めて成立する言葉である。多様化かつ高度化を求める高齢者が、自らの生涯を自らの責任において楽しく、豊かに演出するため、「遊び心」をグランドワークとした市民参加型生涯学習を模索して設立された。

(事業の概要)
昭和59年、清水市高齢者教育促進会議の提案に基づき、清水市の生涯学習の一環として、翌60年設立された市民参加型生涯学習システムである。
その特徴は、
@「教授公募制」である。従来の生涯学習が視点を学習を求める市民においてきたのに対し、本大学塾は「教えることを自らの生涯学習・生甲斐」としたい市民教授を公募したことである。
A「教授陣による自主運営制度」である。行政の役割は広報・会場の確保、塾の運営は、教授自身。全体的な運営は、教授陣より選出された塾長・副塾長を中心に管理責任者である中央公民館長がコントロールしている。
B「市場原理の導入」である。当大学塾の運営費用は授業料を含めその殆どが塾生負担であり、講師料は塾生数により異なる。
 1授業料:月1回講座年間5,000円 月2回講座年間10,000円 
(他:運営費年間1,000円)
C「クーリングオフ制度」の導入である。開講して2ヶ月以内に申出れば授業料は返還される。
現在 15回・教授90名・講座数130講座・塾生数2,800名
    (塾生が10名未満の講座は不成立)
事業 10周年記念全国サミット
    15周年記念 生涯学習のまちサミット・IN清水

(通信・出版物等)
清見潟ニュース 毎月1回・B4両面印刷(白黒)
私の戦争体験「いま書き残したいことがある」 市民公募作文集
  註・清水市は太平洋戦争で米軍の艦砲射撃を受けた唯一の都市である。

Emailアドレス(kiyomigata@mail.wbs.ne.jp

しずおか未来づくりネットワーク加盟団体
http://www.pref.shizuoka.jp/soumu/sm-06/02dantai/kohyo/017.html

団体名   清見潟大学塾  
設立年月日   昭和60年9月  
代表者   大石 正路  
事務局   清水市桜ヶ丘7−1 清水市中央公民館 
TEL.0543-54-1321 FAX.0543-51-1664 担当者 大石道子
E-MAILアドレス Kiyomigata@mail.wbs.ne.jp 

団体構成
(構成人数等)   教授数  96名
講座数 139講座
塾生  3,180名 (平成12年度現況より)  

設立目的   昭和59年度「清水市高齢者教育促進会議」の提言から設立された「市民参加型生涯学習システム」として、市民が健康で学びたいという意欲のある限り学べる場所を提供する。  

活動内容   清見潟塾大学塾の概要(毎年10月〜翌年9月まで開催)

市場原理の導入を原則とし、教授は公募制(自己推薦型)で受講希望者10人未満の講座については不成立となる。
同一の教授による講座は多くとも3講座までとする。
第1学部(作品展示部門)42講座、第2学部(ステージ発表部門)53講座、第3学部(文化・教養部門)43講座の3部門に分かれ、講座は月1回または2回とし、会場は市内公民館およびそれに準じる公共施設を借用し行っている。
大学教授による「清見潟セミナー」は月1回、県立中央図書館にて行なっている。


【1ー2】 しゃれた一章残したい 理想の老後は「不良老人」 )
        生涯学習塾講師・大石正路さん(79)
                          2004年1月1日毎日新聞静岡版から

 富士山が見える清水港は、大石さん夫妻のお気に入りの場所。思い出話に花が咲き、笑顔が絶えなかった。

 一度きりの人生は、とことん楽しまなけりゃ悔いが残る。老後と言っても立派な人生の一ページ。しゃれた一章を残したい――。静岡市清水に住む大石正路さんの理想の老後は、ずばり「不良老人」だ。遊び心を忘れず、どんな時でも何食わぬ顔ができるお年寄り。「昔の女が何人おれの葬式に来てくれるかなって考え、縁側でくすっと笑う。これが不良老人。えん魔さまの前では何食わぬ顔して天国へ行かないとね」

  勤め先を退職後、旧清水市が設立した生涯学習塾「清見潟大学塾」の講師をして、日本書紀や古事記の世界を教えている。スタッフに随筆を頼まれ、塾内ニュースに連載してきたが、昨年秋にそれをまとめ「不良老人のすすめ」(文芸社)として出版した。

  「一生恋をしなければだめ。歳をとり過ぎたら、生まれ変わったら誰と恋をしようと考えればいい」「明日できることは今日やらない。今日やってしまえば明日やることがなくなる」「おしゃれ心を失うな。寝間着で新聞を読めば、それだけで5歳老ける」

  その教えは一見、破天荒にも思える。しかし、実際に会って話を聞けば、スタイルや外見よりも後ろ向きにならない気持ちが何より大切と分かる。そして、それは楽しく伸び伸びと過ごしてきた人生そのものだ。

  ■□  □□  □■

  25歳の時に就職した銀行では、組合活動にのめり込んで一度は退社する羽目に。作業員など七つの職を転々としたが3年後、縁あって元の職場に戻った。

  「仕事では誰にも負けたくない」。そう思う一方で、筋を通すことを大切にしてきた。取引先が倒産すれば、債権者会議や訴訟まで面倒を見た。「そこまでする必要があるのか」。上司は小言を言ったが、「これがおれの生き方」と引かなかった。

  結局、その銀行に約30年間勤めたが、余暇を大切にした。自宅の書斎には経済の本は一冊もなく、歴史ものばかりが並ぶ。会社から帰れば、時間を忘れて読みあさった。

  歴史好きなのは、中学校の教師だった父の影響だ。富士山ろくでリュックサックがいっぱいになるまで縄文式土器のかけらを拾い集めた。成長して土器採集では物足りなくなると、小遣い銭を握りしめ東京まで古事記と日本書紀を買いに出かけた。表紙がすり切れるまで読みかえし、考古学者になりたいと思った。

  しかし、その夢は戦争がうち砕いた。「大学に行って学徒動員されれば、死ぬ確率は高い。お前はそんなに死に急ぐな」。知人の将校にそう諭され、進学をあきらめた。大学に行った同級生は次々に戦死した。父は「教え子を死なすために教師になったんじゃない」と、40年続けた教師の職を捨てた。

  結局20歳で召集され、中国に渡った。「鉄砲は、もらった記念に1発撃ってみただけ」。激しい戦地でも、鉄砲に弾を詰めなかった。「100%の力を打ち込む人生はむなしい」。そんな思いが芽ばえたのは、暗かった青春時代と関係があるのかもしれない。

  ■□  □□  □■

  「いつも若々しくいたい」。そう願って、69歳の時から声楽のレッスンを受けている。ピアノ講師の女性を自宅に招き、その演奏に合わせてシャンソンやカンツォーネを歌い上げる。喜寿(77歳)を迎えた2年前、親せき一同を集め「ダブルセブンリサイタル」を開いた。条件は「拍手をすること」。観客は約束を守り、大盛況の一夜になった。

  週1回の声楽レッスンは、職場結婚した妻静枝さん(77)にとっても楽しみな時間だ。「あなた、『初恋』を歌って下さいよ」。リクエストを受けると「おれの恋はいつも初恋さ」と冗談を言って歌い始める。

  「相手が怒っている時は、笑って話を聞くこと」。2人は結婚を前にそんな約束を交わし、50年余の結婚生活でそれを守ってきた。「不良老人に負けず、私も手抜き奥さんだったから」。静枝さんはレッスンに夢中の夫の横で、円満の秘けつを教えてくれた。
                           【大楽眞衣子】

 ◇おおいし・まさみち

  79歳 静岡市清水宮加三 静岡市生まれ。清水銀行の元常務取締役。清見潟大学塾講師。「がんを治す医者を探せ」という母の遺志を継ぎ、ボランティアでがん免疫療法の普及活動にも取り組む。妻と2人暮らし。

 ◇今年やってみたいこと

  80歳になったら塾生を招いたリサイタルを開きたいので、そのための歌を練習したい。


[歳をとるのは素敵]/1 大石さきさん/大石正路さん */静岡
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毎日新聞2004年1月1日静岡版

 健康不安、少ない年金、介護、医療費は増える一方――。社会の一線を退くと、今の世は不安なことばかりだ。これまで一生懸命に働いてきたのに、歳(とし)をとったらいいことは何もない。そんな逆風が吹く中、歳をとっても輝いて何かに挑み続ける人たちがいる。趣味やライフワーク、ボランティア、企業経営など活動分野はさまざま。自分にしかできないこともある。とびきり元気なおじいちゃん、おばあちゃんたちに登場してもらい、これから高齢期を迎える世代への応援歌としたい。

 ◆人生燃え尽きるまで

 ◇ハッピーエンド演じて−−劇団主宰・大石さきさん(87)

 「行って来るね、マリちゃん」。出かける嫁は飼っている犬にだけ声をかける。留守番をする姑(しゅうとめ)のことはまるで無視だ。
「歳をとると情けないもんだ。わしゃ、こんなつもりじゃないっけよ」。姑は愚痴をこぼすが、我慢できない。「もう、やっきりする(腹が立つ)」。け飛ばした小道具のぬいぐるみは観客席に向かって一直線。爆笑がわき起こる。

 藤枝市のおばあちゃん劇団「ほのお」。構成メンバーは平均年齢が80歳という女性5人。昨年、全国公開された映画「ぷりてぃ・ウーマン」(渡辺孝好監督)のモデルにもなり、一躍有名になった。渡辺監督いわく、映画は「年寄りをなめるなよ」というシニア世代の応援歌。主宰する大石さきさん(87)は、他人がまねできない行動力とユーモアの持ち主だ。

 劇団は75年に旗揚げ。公演数はこれまで700回を超え、県内73市町村はすべて舞台を踏んだ。今では全国から出演依頼があり、東は茨城から西は福岡まで出かけた。

 扱うテーマは、家族を中心に嫁姑、痴呆老人、遺産相続と幅広い。自ら台本を書き、仲間との読み合わせで脚本を肉付けする。舞台は「掛け合い漫才」さながら。アドリブが次々に飛び出し、同じ芝居は二つとないのが「ほのお」流だ。

 ■□  □□  □■

 大洲村(現藤枝市)で農家の三女として生まれた。医者になるのが夢で、大東町出身の女医、吉岡弥生にあこがれた。しかし、「女のくせに」という時代。家を飛び出して14歳で看護婦試験に合格し、18歳で正看護婦となった。レントゲン技師をしていた夫が軍属となり、中国山西省で5年を過ごした。

 終戦後、2人の子供を連れて命がけで故郷を目指した。「乗せられた貨車のすぐ上を銃弾が飛び交い、必死で泣き出す子供の頭を抑えた」

 故郷で保健師の職に就いたが、チフスや赤痢が猛威を振るっていた。消毒器を担いで村の全戸を回った。乳児の死亡率は高く、貧困が原因の妊娠中絶は当たり前の時代だった。「料理の味見をするふりをしてたくさん食べなさい」。栄養失調の妊婦にはそう耳打ちした。「命を粗末にし過ぎた時代」の苦い記憶だ。

 定年後に福祉事務所の老人担当として働いたことが、劇団を起こすもとになった。妻を亡くし、寝たきりになった老人を健康指導で訪ねた。枕元には、新聞紙にくるんだ100万円の束。「苦労させた妻と旅行にでも行こうと思ったのに。もう二度と立って歩くことはできないだろうか」。独り言のような問いかけに、かける言葉が見当たらなかった。

 「老いの不安や寂しさ。それを直接訴えかける方法はないだろうか」。民カ委員と相談し、劇形式で表現することになった。家庭を訪ね歩いた経験が台詞(せりふ)に生命を与え、老人の本音が心を打つ。

 発足当初の劇団名は「ともしび」だった。「素人だから細々と」と考えた。公演を重ねるうちに「高齢者の代弁者として人生燃え尽きるまで」という意気込みに変わり、70歳の時に現在の「ほのお」に改めた。

 長男と孫夫婦、ひ孫2人の4世代で暮らす。劇団の歴史が四半世紀を超えたのは「家族や支えてくれた大勢の人のお陰」。今では長女の松田田鶴子さん(61)も、劇団員の「若手」として加わっている。

 ■□  □□  □■

 夕空晴れて、秋風吹き 月影落ちて、鈴虫鳴く 思えば遠し、故郷の空――。

 大石さんの妹の孫、多々良栄里さん(34)は、劇団の写真を撮り続けている。最も好きな演目は「夕空晴れて」だ。元従軍看護婦の「おミツ」は家族から小言を言われてぼけ始め、若いころ戦地で故郷を思って歌った「故郷の空」をうつろに口ずさむ。やがて、家族は老いは誰もがたどる道と気づく。そして「おミツ」の人生に敬意を払い、思いやりの気持ちが徐々に芽生えていく……。

 30本を超える脚本はいずれもオリジナルで「すべて私の歴史」。芝居はきまってハッピーエンドだ。【鈴木梢】

 ◇おおいし・さき

 87歳 藤枝市大洲 終戦後、藤枝市役所の保健師として働き、67年に保健指導係長。02年、劇団「ほのお」が厚生労働大臣賞を受賞。10年前に夫と死別し、長男と孫夫婦、ひ孫2人と暮らす。

 ◇今年やりたいこと

 劇団の後継者を探したい。映画化でたくさんの人に知ってもらって、藤枝に年寄りだけの劇団があることは一つの文化になったと思う。
夢を見るのが好きでね。

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 ◆しゃれた一章残したい

 ◇理想の老後は「不良老人」−−生涯学習塾講師・大石正路さん(79)

 一度きりの人生は、とことん楽しまなけりゃ悔いが残る。老後と言っても立派な人生の一ページ。しゃれた一章を残したい――。静岡市清水に住む大石正路さんの理想の老後は、ずばり「不良老人」だ。遊び心を忘れず、どんな時でも何食わぬ顔ができるお年寄り。「昔の女が何人おれの葬式に来てくれるかなって考え、縁側でくすっと笑う。これが不良老人。えん魔さまの前では何食わぬ顔して天国へ行かないとね」

 勤め先を退職後、旧清水市が設立した生涯学習塾「清見潟大学塾」の講師をして、日本書紀や古事記の世界を教えている。スタッフに随筆を頼まれ、塾内ニュースに連載してきたが、昨年秋にそれをまとめ「不良老人のすすめ」(文芸社)として出版した。

 「一生恋をしなければだめ。歳をとり過ぎたら、生まれ変わったら誰と恋をしようと考えればいい」「明日できることは今日やらない。今日やってしまえば明日やることがなくなる」「おしゃれ心を失うな。寝間着で新聞を読めば、それだけで5歳老ける」

 その教えは一見、破天荒にも思える。しかし、実際に会って話を聞けば、スタイルや外見よりも後ろ向きにならない気持ちが何より大切と分かる。そして、それは楽しく伸び伸びと過ごしてきた人生そのものだ。

 ■□  □□  □■

 25歳の時に就職した銀行では、組合活動にのめり込んで一度は退社する羽目に。作業員など七つの職を転々としたが3年後、縁あって元の職場に戻った。

 「仕事では誰にも負けたくない」。そう思う一方で、筋を通すことを大切にしてきた。取引先が倒産すれば、債権者会議や訴訟まで面倒を見た。「そこまでする必要があるのか」。上司は小言を言ったが、「これがおれの生き方」と引かなかった。

 結局、その銀行に約30年間勤めたが、余暇を大切にした。自宅の書斎には経済の本は一冊もなく、歴史ものばかりが並ぶ。会社から帰れば、時間を忘れて読みあさった。

 歴史好きなのは、中学校の教師だった父の影響だ。富士山ろくでリュックサックがいっぱいになるまで縄文式土器のかけらを拾い集めた。成長して土器採集では物足りなくなると、小遣い銭を握りしめ東京まで古事記と日本書紀を買いに出かけた。表紙がすり切れるまで読みかえし、考古学者になりたいと思った。

 しかし、その夢は戦争がうち砕いた。「大学に行って学徒動員されれば、死ぬ確率は高い。お前はそんなに死に急ぐな」。知人の将校にそう諭され、進学をあきらめた。大学に行った同級生は次々に戦死した。父は「教え子を死なすために教師になったんじゃない」と、40年続けた教師の職を捨てた。

 結局20歳で召集され、中国に渡った。「鉄砲は、もらった記念に1発撃ってみただけ」。激しい戦地でも、鉄砲に弾を詰めなかった。
「100%の力澑ナち込む人生はむなしい」。そんな思いが芽ばえたのは、暗かった青春時代と関係があるのかもしれない。

 ■□  □□  □■

 「いつも若々しくいたい」。そう願って、69歳の時から声楽のレッスンを受けている。ピアノ講師の女性を自宅に招き、その演奏に合わせてシャンソンやカンツォーネを歌い上げる。喜寿(77歳)を迎えた2年前、親せき一同を集め「ダブルセブンリサイタル」を開いた。条件は「拍手をすること」。観客は約束を守り、大盛況の一夜になった。

 週1回の声楽レッスンは、職場結婚した妻静枝さん(77)にとっても楽しみな時間だ。「あなた、『初恋』を歌って下さいよ」。リクエストを受けると「おれの恋はいつも初恋さ」と冗談を言って歌い始める。

 「相手が怒っている時は、笑って話を聞くこと」。2人は結婚を前にそんな約束を交わし、50年余の結婚生活でそれを守ってきた。「不良老人に負けず、私も手抜き奥さんだったから」。静枝さんはレッスンに夢中の夫の横で、円満の秘けつを教えてくれた。【大楽眞衣子】

 ◇おおいし・まさみち

 79歳 静岡市清水宮加三 静岡市生まれ。清水銀行の元常務取締役。清見潟大学塾講師。「がんを治す医者を探せ」という母の遺志を継ぎ、ボランティアでがん免疫療法の普及活動にも取り組む。妻と2人暮らし。

 ◇今年やってみたいこと

 80歳になったら塾生を招いたリサイタルを開きたいので、そのための歌を練習したい。

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 ◆高齢者めぐる諸問題

 ◇高齢化率、全国平均上回る

 年金問題への不安が募るなか、静岡県は全国に比べて高齢化が進んでいる。豊かな自然に囲まれ、気候にも恵まれ暮らしやすい風土。長寿の県である一方で、介護保険制度を活用している割合は低く、4人に1人が仕事を持つ「現役」だ。県内はあと四半世紀が過ぎると県民の3人に1人が65歳以上の高齢者となる。高齢者問題への行政の取り組みや高齢者向けビジネス、急増する老人を狙った犯罪の現状などをまとめた。

 ◇増加する高齢者

 65歳以上の高齢者数は03年4月現在で72万5619人で、「高齢化率」は18・9%だ。これが2030年には30%を超え、3人に1人が高齢者となる。また、その2割近くが75歳以上という未曽有の高齢者社会になる。これは全国平均をやや上回るペースだ。

 一方、平均寿命(00年)は男性が78・15歳(全国8位)、女性が84・95歳(同14位)と全国平均を上回る。65歳以上の平均余命も全国トップレベルを維持している。

 ◇多様な取り組み

 県では指針「しずおか健康創造21」を策定し、県民一人一人の健康づくりを推進。NPO(非営利組織)や企業と連携し、地域ぐるみで高齢者を支えるシステムを構築しようとしている。地域での取り組みも活発だ。静岡市の老人福祉制度は、70歳以上なら公共施設を無料で使える「シルバーカード」を発行。市内五つの銭湯を月1回無料で開放する「ふろばた会議」もある。富士市では、1人暮らしの高齢者向けにペットの医療費を半額助成し、電話のない世帯に「福祉電話」を貸し出している。

 ◇就業率4分の1

 高齢者の就業率(00年)は26・5%。それ以外のお年寄りは、個人によって月額数万円〜30万円の開きがある年金が主な収入源だ。04年度税制改正では公的年金の控除額が140万円から120万に縮小。老年者控除(年間所得1000万円以下の高齢者の所得税を一律50万円、個人住民税を一律48万円控除)も廃止される見通しで、お年寄りには厳しい内容となる。

 ◇低い介護認定率

 要介護認定者数は03年9月現在で8万9861人。認定率は12・3%で、全国で4番目に低い。高齢者は基準額(平均2932円)と利用料の10分の1を負担。在宅サービス利用者の負担額は平均1万円弱で、とくに高齢者だけの世帯には大きな負担になっている。

 医療費が膨らみ、国民健康保険料も増えている。70歳以上の高齢者の医療費負担も02年10月、定額方式から1割(高額所得者は2割)の負担に引き上げられた。

 ◇施設介護水準も

 施設介護サービスの水準(ベッド数)が全国的に低いのも課題だ。介護老人福祉施設(特養ホーム)のベッド数は03年3月末現在で8960床と、高齢者総数の約1・2%。厚生労働省の参考値で、全国平均の1・5%より低い。このため県は07年までに1万4575床、同1・8%に増やす計画を立てている。

 ◇狙われる高齢者

 02年ごろから高齢者を狙った犯罪が急増中だ。「おれだよ、おれ」と孫などを装って高齢者から高額の現金をだまし取る「オレオレシ欺」が県内でもひん発。県警捜査2課によると、60歳以上の被害は02年2月以降で約100件、被害総額は約1億610万円に上った(03年12月16日現在)。

 また、高齢者をターゲットにした訪問販売や家屋工事の高額請求などの被害も多い。県県民生活室は「おかしいと感じたらすぐに相談窓口へ」と呼び掛けている。

 ◇多彩なビジネス

 元気な高齢者にターゲットを絞ったビジネスも盛んだ。静岡市の静鉄観光サービスは、グラウンドゴルフなどと組み合わせた体験型バスツアーで高齢者の人気を集めている。

 海外旅行に出かける高齢者も増えており、多くの旅行会社が「時間とお金に余裕のある高齢者は貴重な顧客」と見る。また、高齢者を対象としたパソコン教室も盛況で、高齢者向けのオリジナル教科書も登場している。

不良老人のすすめ―一度しかない人生をとことん楽しむためにISBN:4835564316

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155p 19cm(B6)
文芸社 (2003-10-15出版)

・大石 正路【著】
[B6 判] NDC分類:914.6 販売価:\1,000(税別)BookWebの取扱い店舗には在庫がございませんのでお取り寄せになります。但し、「各店在庫案内」で表示されている店舗には在庫がございます。別途、当該店舗へご注文が可能です。愉快・痛快・爽快な老後の生き方とボケない秘訣を伝授する、定年後必読の一書!世の中、おもしろくてボケてなどいられない。老後は次の人生への助走である。

高齢者は日本経済を支える最強軍団である
夫婦喧嘩は老化防止の妙薬高齢者
お国のために死んでたまるか
徴兵検査は六十五歳から
人生は舞台である。馬の脚で終わるな
不良老人とは何食わぬ顔の出来る人だ〔ほか〕

この書籍は、「日本書籍総目録」に存在しますが、品切れの場合もありますので予めご了承下さい。
お買い物のしかた 同分類検索 [BOOK著者紹介情報]
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大石正路[オオイシマサミチ]
1924年、静岡市生まれ。清水銀行元常務取締役。静岡市・清水「清見潟大学塾」前塾長。
『古事記』『日本書紀』講座講師。医療法人社団自然会横浜サトウクリニック(がん免疫療法専門)佐藤免疫療法友の会「一英会」会長
NHK番組:プロジェクトX 
http://www.nhk.or.jp/projectx/library/library.html
第137回 2月17日放送「われら茨の道を行く」〜国産乗用車・攻防戦〜
<これは講演会報告ではないけれど、メール記録からこの欄に転載する>

クラウンの開発秘話を扱った表記番組をご覧になりましたか。
私は以前に今回メール送信するほとんどの方に紹介し、「これだけは
絶対に見ます!」と宣言しておきながら、うっかり見逃してしまいまし
た。

愛知県豊田市。そこに、年間16兆円を売り上げる世界企業がある。
「トヨタ自動車」。年に生産する車の数は、実に600万台。稼ぎ出す
外貨は、日本が毎年輸入する原油の総額に匹敵する。

 しかし昭和25年、「トヨタ自動車」は倒産の危機にあった。主力商
品は、戦中、軍用に作ったトラック。故障で売れなかった。銀行に融
資を止められ、給料も払えない。すぐさま勃発した全従業員6000人
の大ストライキ。創業の社長は、辞任に追い込まれた。

 その時、命運を託されたのは、工場叩き上げの現場主任・中村健
也だった。眼光鋭く、威圧感のある男。入社以来の夢、「国産乗用車
開発」に打って出た。

 だが、開発は過酷を極めた。トラックとは違い乗用車の鍵は振動の
制御。日本の悪路は手強かった。試作車を作るが、バネは折れ、車
体はバラバラ。さらに、国内のライバルメーカーは、次々に外国企業
との技術提携の道を選択。経済界からは、「自動車産業不要論」まで
もが出た。

 それでも、開発のリーダー・中村は諦めなかった。2万点を数える部
品の一つ一つを改良。車体作りの鍵・鉄板を求め、自ら鉄鋼メーカー
との交渉に乗り出す。そして昭和31年、完成した車は、ロンドンー東
京・全長5万キロの壮大なテストドライブに打って出る。

 番組は、初の本格国産乗用車「クラウン」。その執念の開発物語。
「自動車王国・日本」誕生の壮絶なドラマを伝える。



数日前、守屋さんと電話していてこの番組が終わっていたことに気づ
きました。以下はビデオテープをお借りすることになって交わした交信
です。

守屋さんへ
ビデオテープの送付、有難うございました
さっそくお届けくださいましたテープ、拝見しました。
入社する数年前からのことで、今まで知らなかった先輩諸氏のご苦
労の
様子を垣間見る思いがしました。

先ほど舘武憲君と電話で放送のことを話したら、彼は映像が実際の
ものと違い過ぎるとか、中村氏の人物評の表現がおかしい、長谷川
氏への語り掛け方が不適当……等々、いろいろ難癖をつけていまし
たが、一般の視聴者向けには分かりやすい編集がしてあったのでは
ないかと私は思いました。

守屋さんのことは、時間的に短いカットが二度ほどあったのみで、3時
間の取材を受けながら「たったあれだけ?!」というお気持ちかと推
察しますが、クラウン成功の上で一番重要だったコイルスプリングの
耐久性向上を成し遂げられた功労者という意味合いが十分伝えられ
ていたと思います。

貴重なテープですので、あと二三度復習させていただいてからお返し
させていただきます。今しばらくお貸しおきください。

守屋さんより
舘君が電話で言ったという内容、彼は相変わらずだなーと苦笑しなが
ら読みました。

放送内容を技術的に見れば、問題はいくらでもあります。私に関する
シナリオも、ビデオ撮り中には一切出ませんでしたし、スプリングの破
断状況も不自然です。

破断したフレームも形状が全く違いますし、フレームの破断状況も全
然異なっています。

自宅近くを歩いているシーンも、会議に呼ばれて出かけて行くつもり
で歩けと言われて3回繰り返した中の一映像です。

最初の放映を見た時は私も少なからず不満を感じましたが、正確な
技術情報として報告するには何時間あっても足りないだろうと次第に
納得しました。

50年前の出来事を45分にまとめ、現代人に分かってもらうべきストー
リーとしては良く出来たと言うべきでしょう。

ビデオ インタビューだけしっかり受けて画面には出なかった人も何
人かいるようで、私は幸運だったと思っています。

いずれにしてもこの件に関するNHKの取材は本当に膨大だったと実
感していまして、民放ではとてもまねできないだろうと痛感しました。

視聴率は、関東で15.0%、関西で15.8%と非常に高く、担当の久
保ディレクター自身も大変驚いた様な文面の手紙をくれました。

テープはごゆっくり見ていただいて、適当な時期に返送していただけ
ればOKです。
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舘さんと再度電話したら、私がメールで書いたことよりも豊田喜一郎
氏の「研究と開発に心を致し、常に時流に先んずべし」という精神が
反映されていなくて、ただトラブル対策に明け暮れた挙句にモノにな
ったという印象が強かったことが残念だということでした。

なお、Sさんは自宅が中村健也さんのお隣ということで、私生活場面
での中村さんを次のように伝えてくださっています。

私の現在住まいしておりますところは岡崎の○○町ですが、丁度中
村健也元参与のお宅の真向いですので、私的な中村参与をしばしば
お見受け致しました。

私の入社時最初の職場はどういう訳か「製品企画室」でしたので、比
較的近くに席を置かせて戴いたのですが、余りにお偉い方でしたの
で、恐れ多く身近にお話をする機会が職場では殆どありませんでし
た。

しかし、休日などは自宅近くで犬を散歩させておられる時にお会いし
たりしましたし、家内が自動車にカバーを掛けていたりすると、親切に
手伝って下さったりで、怖いことはありませんでした。現在では奥さま
が毎日朝犬を散歩させて居られます。
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<メールを見た方々より>

TV見ました。トヨタ自動車も色々苦難があったのだなあと認識を新た
に致しましたありがとうございます。                 3/5 
harapika

 見ましたよ。クラウン誕生の秘話、感動的でした。
これからも興味深い話題を提供してください。       3/5 
Hamajima

メール有難うございました。私も丁度テレビのスイッチを入れたところ
で四郷にいる弟からも電話が来ました。私は臨時工で入社したのが
昭和31年7月トラックラインで誰もが嫌がるフレーム反転作業をして
いました。当時の仲間は今どうしているのかと思いながらテレビを見
ていました。表には出てこなかった人たちも忘れてはいけないと思い
ます。     3/5 bridge3   

小生もプロジェクトXをみました。中村さんには試作車センチュリーや
ガスタービンでいろいろ仕事をいただいたので懐かしくみました。みる
者が見ると不自然なところが多くありましたが中村さんも既に亡くなら
れているので止む終えないことかもしれませんね。
でも乗用車にかける情熱は充分伝わったと思います。守屋さんも出
てましたがショットピーニング処理で耐久性を確保された技術内容が
紹介されていました。昔の人は本当にチャレンジャーであったことが
よく分かりました。
現在の人に大変参考になったと思います。         3/5 
Kondoh

私はプロジェクトXは最近は殆ど見ませんが、今回は見ました。でも、
今回もがっかりしました。シナリオがいつものように、やらせ半分のお
涙頂戴式になっているからです。
枝葉末節も多く、自動車の場合は関係者が無数に居るから、一人に
焦点を当てるのは、元々無理もありますが・・・
中村さんとは、仕事でも若干の付き合いがあり、勉強家である事は承
知していました。
1万冊の書籍で家が埋まっていますが、奥様はお困りではないかと
思います。技術書は陳腐化するため、古本としても売れず・・・
私は死ぬ準備を再開しています。書物は直ぐに捨てられますが、業
務に拘わる自書の原紙は捨てがたく、膨大な量になりましたが、一点
一点チェックしながら捨てています。葉書や手紙なども延々保存して
いましたが、これも読み返しながら、捨てています。
今年中には、書斎はすっかり空にする予定です。
貴台は過去の精神活動の遺産はどう処理されていますか?
                                3/5 Ishimatsu

<kayより>
私は貴兄に負けず劣らず各種資料を残すタイプで、入社当時からの
業務日誌に相当するビジネスノートから給与明細票に至るまで保存し
ていました。ある時期まではトヨタ新聞やトヨタグラフまでも特製の表
紙つきバインダーで保存していました。
区画整理で家を建て替えるときに二回の引越しをしたので、それを機
会にかなり捨てましたが、屋根裏に設けた収納スペースに今でも足
の踏み場もないほどダンボール詰めの資料が放り込んであり、女房
は「地震のときに天井が抜けて資料が落下して大惨事の元になるの
では!」と心配し、全部目をつむって捨てるよう迫ります。
書類のみではなく、ゴルフの道具も買い換えたほとんどが屋根裏に
あります。アイアン
セットなど10組ほど持っています。ドライバーやパターはそれぞれ20
本くらいはあるでしょう。ゴルフをやめて3年近くなりますので、これこ
そリサイクルの店に売り払うか、だれかにあげてしまうかするようにと
妻からうるさく言われています。安物買いの銭失いの典型である私の
持ち物など、只でも貰ってくれる人はないでしょうけれど……。
先日、ハードオフという中古品の店で見たカーボンシャフト付のアイア
ンセットは私の持っているどのクラブより真新しく、売り出し価格は相
当高かったはずの品でしたが、
それに付けられていた値札にびっくり。9本で60円でした。私がまだ
ゴルフを年に
二三度でも行っているなら1万円でも飛びついて買ったでしょうに。
一昨年、亡くなった養母は料理業をしていた頃の食器などを「もう必
要ないのだからから、5個くらいずつ新聞紙で包んで、家の前に置き
『ご自由にお持ち帰りください』ということにしたら…」という我々の忠
告に耳を貸さず、「その内に自分で片付けるからいい!」と言っている
うちにあの世行きとなってしまいました。
私がその二の舞になることを妻は恐れています。貴兄を見習い、逐
次整理したいという気持はありますが、「自分史へのデータ取り込み
などをした上で」などという多分できそうもない構想が邪魔していま
す。録音テープからの編集も考えているのですが、これはどこにどん
な内容が入っているかの確認に実録時間だけかかるということで書
類より一層大変です。
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あの番組は私も録画しました。
開発秘話としてはよくできていると思いますが、苦労した点を絞り込
むのに番組スタッフはそれこそ苦労されたのでしょう。当時の人たち
にとってあの車を作るのに、本当にあれが最大の難関だったのか
な、もっとほかに苦労した点があったのに映像にすることが難しかっ
ただけなのではないかな、と 私は内容にやや疑いの目を持って見ま
した。
採用したR型エンジンは小トラ用にすでに量産化されていたものだ
が、初代クラウンのあの特徴あるスタイルデザインの開発過程や、画
期的な乗り心地を実現させたサスペンション設計、斬新な駆動系など
も大きなポイントだった筈です。トヨタサイドが(宣伝臭を交えることな
く)時間をかけてクラウンの開発物語を映像化したとしたら、もっと違
ったものになっていたでしょう。
映像に出てきたフレームの破損状態やコイルスプリングの折損状態
は、素人にはよく分からないだろうが、損傷部品をたくさん見てきた私
から見るとまことに妙なものでした。フレームの破損も、起こるべくし
て起こる部位ではなかったですね。技術的考証は十分とはいえませ
んでした。ただ、この種の破損品は急に作れといわれてもできるもの
ではないだけに、やむをえなかったかもしれません。
本年1月に CBCテレビで放送された「大陸の轍」も、民放版プロジェ
クトXというべき番組で、トヨタ車のアメリカ輸出の苦闘を扱っていまし
た。これも録画してあります。上記といっしょにひとつのDVDにまとめ
ておこうと思っています。  3/5
Asaks


標記のメール有難うございました。守屋さんの様子も興味ぶかく拝見
しました。
私は、番組放映当日NZ.クライストチャーチに居ましたので、オンエ
アーで見ることはできませんでした。 でも、まえもって放映を知って
いましたので、子供に録画させておき、ビデオで見ることができまし
た。
感想は皆様と同様で、いろいろ違いや異論はありますが、一般向き
にはまあまあだと納得しています。
というのも、1年半くらい前に私の長兄がプロジェクトXに、東芝のワー
プロ開発の物語で取り上げられたときも、同様の感想を持った様に思
います。 
 余計なことを書きましたが、ときどき 適当なときにメールして下さ
い。
                                3/5 Tsuzuki

プロジェクト]は全部見ました。僕のような、ごく一般的な視聴者と関
係のあった人とでは、感じ方、見方は当然違うことと、思いますが、そ
れなりに、良い番組だと思って見終わりました・・・又、良い番組があ
りましたら、是非、教えて下さい。
僕はバソコンを開けない時がありますので、出来れば携帯に送信して
頂ければ、有難いのですが・・・                 3/7 
Ryoichi

 こんにちは、
ご無沙汰いたしておりますが、いつもメールを頂き有り難うございます。
この前のメールでは足助の中馬のおひなさんの写真と富士山の写
真、
大変きれいな素晴らしい写真を有り難うございました。
楽しく拝見させて頂きました。
 kayさんから中馬のおひなさんのことを昨年もお聞きして、今年は期
間中に足助を通ったときに、全体の1/3くらいしか見なかったですが
楽しく見させてもらいました。
 また、プロジェクトXもビデオに撮り、見ました。
 会社生活の頃を懐かしく思い出しながら見て、保存版にしておりま
す。
 今はトヨタすまいるライフ(旧名ートヨタ住宅)で輸入住宅のアフター
サービスの仕事を楽しくさせてもらっております。
 kayさんの益々のご活躍をお祈り申し上げます。      3/7 m-kami
これは講演会報告ではないけれど、メール記録からこの欄に転載する。